西向きの部屋はなぜあかんのか

以前住んでいたシェアアパートの部屋は、西向きだった。
世の中で西向きの家というのは敬遠されるらしい。
そんなことも知らない常識知らずの私は、その部屋しか空いていなかったので呑気に西側の部屋に住んだ。
なんせ屋上テラスに惚れ込んで選んだので、正直部屋はどこでもよかった。

夏は西日が暑くて暑くて、冬は特に午前中が寒くて、角部屋なので風は抜けるし、とても住みやすいとは言えない部屋だった。
北向かいには二条城、西向かいには大きな二条公園があり、私の北西の角部屋は両方を望むことができた。

早朝から深夜まで活気づく二条公園
二条公園は朝から晩まで世代を変えて賑わいを見せていた。正直に書くと、それはそれは騒々しかった。

朝6時のおじいちゃんおばあちゃんの太極拳に始まりラジオ体操、午前中は近くの保育園の子供たち、午後になると学校が終わった小学生が来て、次いで中学生が来て高校生が来て…〆には夜に大学生や若い社会人がお酒を飲んだり遊具で遊んだりしている。
遊具がまたギコギコと音がして、深夜の空に響き渡る。油さしてくださいと区役所に何度電話しようと思ったことか。
決して良好とは言えない部屋だったが、それでも一つだけ愛していたのが、嵐山へ沈む夕日だった。

夕暮れの歌
大学時代愛唱していた歌を引こう。
夕ぐれは 雲のはたてに 物ぞ思ふ
あまつそらなる 人を恋ふとて

「はたて」は果て。歌の意味は「夕暮れになると、雲の果てを見ては物思いに沈みます。はるかかなたの空にいる、あの人が恋しくなってしまうのです。」といった感じか。古今和歌集にも入っている。
この響きの良さにうっとりする。「物思い」=「夕暮れ」=「秋」というのは和歌の鉄板だが、愛しい人を「あまつそらなる人」という美しい表現にグッと来ちゃう。
この歌は「詠み人知らず」という、作者の分からない歌だが、その読み手もこの夕暮れを見てよんだのかしらと、名前も知らない昔の人に思いを馳せてしまう。

部屋の窓から嵐山の夕日を見ながら、何度もこの歌を口ずさんだ。そして、もう会えない人のことを思い出して、哀しくなった。
口ずさむ愛唱歌
古典には愛唱歌と言われるものが一定数あって、意味も大事なんだけど、それ以上に口ずさんだ時の響きの美しさが強くて、人々に愛唱されるのだ。
そしてこの歌はまさにそうで、下の句の響きの良さがたまらない。まるで独り言のようにふっ…と漏れてしまったような、容易くそらんじてしまう、響きのよさがある。
そう例えば、瑠璃光院の記事で紹介した、これとか。
青空の もとに楓の 広がりて
君亡き夏の 初まれるかな

そうやって人口に膾炙して、受け継がれていくのが愛唱歌だ。なんとなく、百人一首にはそういうものが多く選ばれているという感覚がある。

西の極楽浄土に行けなくとも
古くから日想観という考え方がある。夕日を見て西方浄土を思う、浄土宗や浄土真宗など浄土系の仏教に強く根付く思想だ。詳しくはまた今度。
この嵐山の夕日をみて、幾度となく思いを馳せた。いつか私は西方浄土に行けるだろうか。こんな業深い私が行ける資格はあるのだろうかと。

次第にこう思うようになった。極楽浄土へ行けなかった時のために、この景色を目に焼けつけておこう、と。今世で精一杯生きる。美しいものをたくさん見つめながら。





