私の逃げ場、安寧の地【Hotel宇多野京都別墅】|余白の贅沢

いま京都で失われつつあるもの

忙しい京都と、安寧のための京都

 

京都に移り住んで丸3年。まちなかのホテルとか旅館とか、泊まる場所も増えた。便利で、華やかで、話題になる宿も多い。でもその一方で、京都で過ごす時間そのものが、少しずつ忙しくなっている気もする。
どこへ行くか、何を見るか、何を食べるか。充実しているはずなのに、気づけばずっと何かを“こなしている”。一生タスクに追われている感じ。

本来、京都は私にとってそういう街じゃなかったはずなのに。ただ移動して、消費して、記録するためじゃなくて。気持ちを鎮めて、1200年分の時間の層の上にちょこんと自分を置き直せる街だった。

時々、この騒がしさ、周りの煩わしさから逃げたくなる時がある。そんな時に、心拍数を下げてくれる京都が欲しくなる。宇多野は、そのための場所だ。

そもそもの宇多野という地域

山陵の地としての宇多野

宇多野という土地には、不思議な静けさがある。それは単に人が少ないとか、街の中心から離れているとか、そういうことだけじゃない。この地域そのものが、もともとそういう空気を抱えてきた場所なのだと思う。

双ヶ丘のふもと。宇多野は、古くから皇室の気高き記憶と結びついた土地だった。古くは『日本後紀』に「宇太野」とあり、806年には「山陵の地」と定められた。実際、この一帯には天皇陵があり、禁野として天皇の鷹狩の場ともされていた。

そして宇多天皇が後年を過ごした安息の地である。こう言うと不遜な気もするが、気が合うなあと思う。ああ友達になりたかった。この場所には“安息の地”という言葉が妙にしっくりくる。

宇多野、という字面からして

宇多野、という字面からしてもう良い。うだの。この柔らかい響き。しかもお屋敷町という町名がまたいい。宇多野というと有名なユースホステルがあって、日本でも屈指のユースらしい(何をもって屈指なのかはよくわからない)。私も仕事でお世話になっていて一度泊まって、キャンプファイヤーをしそうな広場で燻製大会をしたこともある。

でも、宇多野のよさは響きのよさだけじゃない。中心部から少し離れていることが、ここでは弱みではなく意味になっている。京都駅に近いとか観光地に近いとか繁華街に出やすいとか、そういう便利さで測ると見えてこない価値が、この場所にはある。

少し退くことでしか得られない静けさ。少し離れることで思い出せる京都の時間。その距離が、宇多野にはある。

宿に入る前から、時間がほどけていく

庭を一望するレストランで始まる滞在

Hotel宇多野京都別墅(べっしょと読む。これは読めない)は、2024年10月にオープンした。昭和初期の大渡光蔵氏の邸宅を活かし、たった10室の全室温泉風呂付でつくられた宿。大きく開発して人を大量に受け入れるのではなく、もともとこの場所にあった空気を壊さずに現代の滞在へつなぎ直そうとしている感じがする。

チェックインは、庭を一望できるダイニングで行われる。まず座って、お菓子をいただいて、景色を見る。あの“ようこそ”の感じが、「ああ私もてなされている」と実感させてくれる。チェックインは、宿の初心演説だ。

おもてなしのお菓子も、いかにも“映え”のための華やかさではなく、心の奥をくすぐられるかわいさ。胸がキュッとなる。夕方のカフェタイムに出る玉ねぎクッキーも、名前だけ聞くと不安になるけど、目が飛び出るほどおいしい。しかも非売品で、ここでしか味わえない。ああ、あの味が今もどうしても忘れられない…。こういう小さくて、でも妙に忘れられないものがある宿は趣味がいい。

家族と連泊して、少し暮らす

この宿は、友達より家族を連れて行きたい

この宿に誰を連れて行きたいかと考えると、まず家族が浮かぶ。友達と来てももちろん楽しいけど、優先すべきは親や家族だ。

今回私は、一泊を姉と2人で過ごし、もう一泊は姉の旦那さんも来て3人で過ごした。これがとてもよかった。家族というのは不思議なもので、無理に盛り上げなくても成立する。話が途切れても別に気まずくないし、各自の持ち場で勝手にしていても平気だし、何か特別なイベントがなくても時間が流れていく。

宇多野は、そういう関係性を包んでくれる宿。友達との旅には友達との旅の華やかさがある。京都ならそう、例えばフォションとかリッツカールトンとか。でもここは、「わざわざ何かをしなくていい相手」と来るのが似合う。もしくは贅沢に一人ね。

連泊してこそわかる価値

そしてここは、連泊してこそ真価がわかる。一泊だと「素敵な宿だったね」で終わる。でも二泊すると、宿が宿泊先ではなく、仮の暮らしの器になってくる。まあそんなこと言ったらどこの宿だってそうなんだけど。

ホテルではランチの営業がない。オペレーションの問題だと思うけど、それがむしろよかった。おすすめしてもらった近くのパン屋「キキダウンステアーズベーカリーで、美味しいパンを買い込んだ。全部をホテルの中で完結させるのではなく、周辺の空気とつながる余白があるのもいい。そこはししゃもパンで有名なお店なんだけど、あの時何を思ったのか、手に取りかけて選ばなかったことを未だに後悔している。

放っといてくれる贅沢

ちなみに初日の夜はチェックイン前にまちなかでシャルキュトリーやデリ、シャインマスカットを房ごと贅沢に買い込んできて、部屋で酒盛りパーティー。そして2日目の夜はきちんと宿の食事をいただく。

別に、フルサービスを受け続けることだけが贅沢じゃない。自分たちのリズムで気ままに過ごせること、それ自体がかなり贅沢だと思う。

夕食後の21時から23時、ディジェスティフサービス(なんのこっちゃ)では、自由に飲めるお酒を手に、庭を見ながら一人で静かに過ごす。ラインナップも、季の美や松本酒造など京都の地のものが揃う。京都を愛する酒飲みには嬉しいことこの上ない。

 

夕食後に一眠りしてからここにおずおずとやってきて、また玉ねぎクッキーを大量に取って、季の美を啜る。
少しだけ仕事もして、あとは闇を見つめながらぼんやりする。

誰かと盛り上がるためのバーではなく、夜の静けさに吸い込まれそうな庭を前にして、自分の心の輪郭を取り戻すための時間。宿が過剰に「楽しませます」という顔をしていないのがいい。「好きに静かにしていてください」と言われる方が、よほど嬉しい夜もある。

日本人の身体が喜ぶ贅沢

外資系ラグジュアリーとは違う幸福

ここの食事については言いたいことが山ほどある。なんせ私は下京区30代の部で食いしん坊の上位に位置する自負がある。

京都の中心部には、外資系の高級ホテルや、スモールラグジュアリーを前面に出した宿も多い。それはそれでめちゃくちゃ洗練されているし、非日常感もある。でもなんか、疲れちゃう。

よくあるのは「さあすごいでしょう!どやさ!」という感じにちょっと押し付けがましいパターン。特別でしょう、良いでしょう、という圧が強いと、こちらまで“正しい客”になろうとしてしまう。一方、皆同じような食材と調理法だったりして、紋切り型のご馳走で面白くないことも最近増えた気がする。

この例で私がよく出すのが、八代目儀兵衛のお米と、細尾さんの西陣織のしつらえ。どちらも本当に素晴らしいし私も大好きなお二人なんだけど、「とりあえずこれにしとけば皆満足なんでしょ」みたいなホテル側の浅はかな思惑が見え隠れする気がする。食事もそんな、「これならいいんでしょ」みたいな感覚をそこはかとなく感じる。

その点、ここの食事は違う。ちゃんと贅沢で丁寧なのに、気取っていない。


私たち日本人が「そう、こういうのがいいのよ」としみじみする味。派手な演出より、深い安心。派手な高級感より、身体が素直に喜ぶおいしさ。
季節の炊き込みごはんが、「ああ、幸せなご飯の時間だなあ」と思わせてくれる。

そして朝食はね、つけたほうがいいですよ絶対。夕食は任せますが1回は食べた方が良い。これ、夕食じゃなくて朝食のお品書きなんです。すごくないです?

おばんざい、季節の焼魚、炊き物、鯛のあら出汁のしゃぶしゃぶ、あらぼし焼き海苔…と、一週間分くらいのおかずが並ぶ。

そしてもちろん、土鍋炊き立てご飯。土鍋越しに見る庭の美しいこと美しいこと。

卵かけご飯の贅沢を噛み締めるようになったのは30を超えてからだ。ああ幸せ。

小さなおもてなしに宿の思想が出る

私がニューアワジらしくて好きなのは、もっと小さなところにもある。チェックインして部屋に入ると、もうお湯が張ってあるのだ。ゲストがすぐにお風呂に入れるように、という配慮である。

決して派手ではないけど、すごく嬉しい気配り。「特別な体験を用意しました!」というわかりやすい驚きではなく、着いた人がいちばん最初にほっとできるように、こっそりしておく。旅の疲れや移動のだるさを、言われなくても先回りして受け止めてくれる。こういう小さなおもてなしに、宿の思想は出ると思う。

そのお湯もまたすごい。東山の坂のホテル京都で掘った「京都清水温泉」を、ここまで運んでいるらしい。その手間をかけられることに、温泉旅館としてのニューアワジグループの矜持を感じる。にしても京都は温泉がないと昔はよく言われてたけど、今は温泉がそこかしこで掘られているなあ。

鱧は、産地ではなく京都の技で食べる

食事のなかで、鱧をいただけたのもうれしかった。京都の夏といえば鱧で、祇園祭の別名が「鱧祭り」だという話は有名。でも、言うまでもなく京都で鱧が獲れるわけではない。大体淡路島や愛媛の大洲のものが多い。

私は東京の出版社で地域創生の仕事をしていたときにどちらの地域(行政)とも仕事をしたことがあって、現地では鱧をもっと気軽に、もっと安価に食べられる。それでも、京都にこれだけ鱧のイメージがあるのは、やはり“ちゃんとした店”の調理技術が育ってきたからだと思う。正直に言えば、産地で獲れたばかりの新鮮な鱧より、京都のきちんとしたお店でいただく鱧の方が、格段に美味しい。

京都は、魚や肉の産地としては恵まれていない。京野菜は有名だけどね。でも、だからこそ調理法が育った。どう扱うか、どう引き出すか、どう美味しくするか。都としての歴史、技と巧みの積み重ねが、京都の食の圧倒的な強さだ。私たちは鱧を食べているんじゃない、夏に鱧を食べるという文化を、体験しにきている。

ジェラートにも、京都と淡路島がある

淡路島の食材が軸にあるのも、ニューアワジグループらしくてよかった。関西の人にニューアワジの話をすると皆、同じ歌を歌う。「ホテルニュ〜アワジ〜」と。私は生粋の関東人ななのでもちろん知らない。知らなくて寂しかった。でも関西人には子どものころから耳に入っているあの名前が、宇多野ではこういう静かな形で本気を出してくる。なるほど、さすがである。

宿泊しない人には、外の窓から買えるジェラートショップをおすすめしたい。山椒ショコラ、八ツ橋クッキー&クリーム、京豆乳と白桃、鳴門オレンジ、淡路ミルク。京都らしいものもあれば、淡路島らしいものもある。地元の人も結構買いに来るらしい。完全に閉じた高級宿ではなく、地域に開いている感じもにくい。

旅にだけ許される余白

お風呂の横の「これいる?」

客室もそれぞれ個性がある。本館と新館、橙や樟、禄など、部屋ごとの性格がかなり違う。客室を均質化していないところがまたいい。

そして、ほとんどの部屋に、お風呂の横に不思議なお休み処のようなスペースがある。正直、最初は「いる?」と思う。自宅ならまず作らない。限られた面積の中で優先順位をつけるなら、たぶん真っ先に削られる類の場所だと思う。

でも、そこがいいのである。いらんやろ、と思うのに、あると妙にうれしい。お風呂あがりにごろごろしたり、ぼんやりしたり、本を読んだり、なんとなくそこに滞在したりする。暮らすようでいて、やっぱり旅でしかない。自宅には絶対ない余白が、旅の幸せをつくっている。そう、旅するように暮らす私だから。

橙の窓、樟のテラス、禄の庭

橙の部屋の窓がまた可愛いこと可愛いこと。車通りが多い道路に面しているので音が気になるらしいけれど、それでもあの窓辺の感じはいい。昔のお嬢様になった気分になれる。

カーテンレールの意匠も、お風呂のタイルも、全部可愛い。

「樟(くすのき)」はテラスが素敵だった。冬はだいぶ寒いらしいけど、寒いのを我慢してでもここで絶対にティータイムを過ごしたい。理性より先に、不便を我慢してでも、ここにいたい、と思わせる場所があるのは強い。

ちなみにこの部屋、外観はスパニッシュ。

1階離れにあたる「禄」はプライベートガーデンをもち、この宿の中でもさらに一歩引いてる感じがする。

リクライニングチェアはのんびりするための部屋、という意志がはっきりしている。

役に立ちすぎない豊かさに弱い

壁のさびは、時間がきれいに積もっている感じがして好きだ。ピカピカに新品なものにはない味わいがある。でもそれにクレームを入れる外国人がいるらしい。うるさい、嫌なら泊まるな。

古い建築のよさは、傷ひとつなく整っていることじゃない。それが良ければ新築のラグジュアリーホテルに行ったほうがいい。時間が触れた痕跡が残っていること自体に価値がある。その感覚は、これからもっと共有されてほしいと思う。

ちゃんと大事にされる、ということ

この宿の中心には、やはり庭がある

この宿のよさを一言でいえば、庭という人も多いと思う。大きな声で言えないが、私はあまり庭のことがわからない。この庭は昭和14年、大渡光蔵氏の邸宅敷地内に築かれたもので、京都人が大好きな重森三玲さんが指導した庭として伝えられている。

蓬莱山の巨石による石組、浜石敷と船石、飛石と延段、露地庭のつくばいと燈籠、そして芝張りの平庭。こうした構成を知ると、ただ美しいだけではなく、かなり意図的に組み立てられた庭であることがわかる。

わからないなりに、私はこの庭の平庭が好きだ。和館の南に開けた芝の面が、思いのほか潔い。よく豪胆な石や苔や起伏のドラマを期待してしまうけれど、ここでは一面に敷きつめられた芝が、むしろ近代らしい開放感をつくっている。ずっと見ていられる庭というより、ずっとそこにいてしまう庭。庭を“見る”のではなく、庭のある空気の中に、スンと身を置く、という感覚の方が近い。
季節ごとに違う表情を見せてくれ、桜が頑張って咲いてくれる様子も胸がアツくなる。

大津壁と和紙の光

館内意匠も丁寧に見ていくと面白い。クレームが入るという大津壁。色土と消石灰に苆を加えて練り、金鏝で磨きこんだ壁で、由来は近江国の良質な白土にあるという。
現地で見ると、ただの“土壁っぽい壁”でも、ただの照明でもない。光をやわらかく受け止め、空間の空気そのものを少し古く、少し静かにしている。

この宿で最上級の部屋「松」の間は、100平米を超える超贅沢な空間。

描かれるのは京都を代表する風景。楓図が描かれた襖の七宝焼も美しい。

たゆたいをたたえるガラス越しに見る庭も。このガラスは割れてしまったら再度作ることができないので、ここに泊まれるのは13歳以上だ。

だからこそ、宴会場として使われたここの襖がかつてすき焼きのタレで汚れてしまったことは悲しいことこの上ない。

鳴滝寮だった時代をどう見るか

この建物は、かつて京都市交通局の保養施設「鳴滝寮」として使われていた時期がある。その時代には、庭に石が追加されるなど本来の意図とは異なる形で手を加えられたり、先のような汚れが付けられてしまったり、建物が文化財的価値にふさわしい扱いを常に受けていたとは言いがたい場面もあったらしい。

私はこういう話を聞くと、悲しく思う。古いものを残すというのは、ただ壊さなければいいという話ではない。そこに流れてきた時間や、つくった人の意図に対して、どれだけ想像力と敬意を持てるかだと思う。

だからこそ今、この場所が丁寧に息を吹き返していることには意味がある。新しくつくられた高級感ではなく、もともとここにあった品格を、もう一度つなぎ直している感じ。私はそこに価値を感じるし、その営みを粛々と続けているここの方々に尊敬の念を抱く。

宇多野に何を持ち込むのか

隣に富豪の家が建っているという話

隣にはアメリカの富豪が2000坪の家を建てているらしい。ここの倍の広さで、高さ制限があるから地下もあるらしい。宇多野という土地のスケール感を思えば、いかにもありそうで、今の京都では珍しくもなんともないことだけど。この場所もそうなってきたのかと。

お屋敷町とは、ただ大きな家があることではない

宇多野は、お屋敷町の記憶が残る場所ではある。でもそれは、ただ大きな家がデーンと建つ土地という意味ではない。静けさや余白や、簡単には見せびらかさない品のようなものまで含めて、この土地の空気というか、品格だったと思う。

大豪邸を建てること自体が悪いとは思わない。でも、宇多野に何を持ち込むのか、どんな価値観でこの土地に居場所をつくるのか、そのことには無関心でいたくない。私は、こういう場所がただ「高級住宅地」として再定義されていくのは、少し違うと思っている。

洛中や東山がそうなっていることはずっと目に見えているから諦めがあるのかもしれない。でも、こういう場所もその波が押し寄せているんだなと、どうしようもない気持ちになった。

茶室だった部屋で考える

以前茶室だった部屋は、いまは打ち合わせなどに使われている。私はよくここで、ご担当者と打ち合わせをする。ガラスがなく、襖だけなのに驚くほど断熱されていて、日本の建築ってやっぱりすごいなと思う。梅の時期はことさら美しく、仕事の打ち合わせなのに少し得した気持ちになる。

生涯大事にしたい場所

便利さや話題性ではなく、どこで整うか

京都で泊まる場所を選ぶとき、日常の延長にいるとつい便利さや話題性に引っ張られる。でもたまには、どこに身を置けば自分の時間が整うのか、という選び方があってもいい。

        

宇多野は、中心から遠いのではなく、騒がしい京都から少し退くためにちょうどいい場所だった。物見遊山のための京都ではなく、安寧のための京都、慰安のための京都を思い出させてくれる場所。

また泊まりたい宿、ではなく逃げてきたい場所

何かをたくさん体験するためではなく、ただ静かな時間の中に身を置き、自分の輪郭を取り戻すための場所。また泊まりたい宿、ではなく、折にふれて逃げてきたい場所。この宿を、喧騒からも、日常からも、少し離れて自分を鎮めるための逃げ場として、生涯大事にしたい。