先人たちの〈覚悟〉の水脈を辿って【高瀬川から疏水へ】薄花色の花嫁記録

若楓の季節に、もう一つの私の“青”を重ねて

5月5日。
端午の節句、菖蒲の節句とも呼ばれるこの日、京都は眩しい日差しが新緑を照らしていた。

初夏の京都には、まだ柔らかいのに、もう二度と後戻りできないような足早な速度の歩みがある。ああ、この一番好きな季節は、一瞬で過ぎ去ってしまう。兼好法師も愛した5月の青葉(卯月と言っているけど旧暦なので今なら5月にあたる)の季節だ。

木漏れ日のもと、私はある一枚のドレスを纏っていた。澄んだ青に、ほんの少し紫を含んだような色。水のようで、空のようで、けれどどこかくすんだ、切ない色。

白いウェディングドレスを纏う時間というのは、厳かで、幸福なものだ。白は、花嫁の色。何色にでも染まる、純白の色。だけど、なんかこう、現実味が全然なくて、不思議な感覚で。鏡の中にいる自分を見ながら、「ああ、私本当に結婚するのだなあ」としみじみしたりしていた。

けれど、やっぱりそれだけではどうしても足りない。というか、私には何か別の、私らしい色が必要だった。

十年のトレンチコート、誰のものでもない私

思えばこの十年、私はずっと青を着てきた。私の少し派手な顔立ちに、驚くほどしっくりと馴染み、落ち着いた知性と凛とした気高さを添えてくれるのが、この青。

くすんだサックスブルーのようなトレンチコートを、何度も何度も買い直してきた。一番気に入っていた最初の1着は無くしてしまって(コートを無くすなんてことがあるのかと我ながら不思議に思う)、いつか突然ひょっこりと「やあ、やっと見つけてくれたね」と言って出てきてくれるのを期待している。

うなじを刈り上げるほど短いショートヘアに、長い丈の蒼いトレンチコート。ダイアナの太いチャンキーヒールを履いて大股で闊歩している時、少しだけ強くなれた気がした。誰のものでもない、どんな男性にもしばられない私になれた気がした。

私にとって青は、流行りの色でもないし、誰かに愛されるための色でもない。私が私のままで、いや、私が思う以上に強くなれる、私らしく生きていくための色だった。

そして青は、私を京都へ導いてくれた色でもあった。そう、新選組の浅葱色。VIGOREの片岡さんに作ってもらった処女作であり、私の愛車・関根号の色だ。そのすべての記憶の延長線上に、このドレスの青はあった。下の1枚はまさに新選組ゆかりの金戒光明寺で片岡さんに撮ってもらったもの。

片岡さんと金戒光明寺についてはコチラ
▶︎自転車に乗る速さで生きていく、泥だらけの戦友
▶︎いつかここに眠りたい ①|【金戒光明寺】法然さんと容保様に平伏したい

「心は移ろえど」、私の肌に深く馴染む平安の青紫

この「薄花色」という色は、平安の昔から人々に愛されてきた、奥深い歴史を持つ。藍染めのひときわ深い青である縹色(はないろ)の別名「花色」。一般に淡い縹色は「浅葱色」と同じと言われることもあるけど、もう少しその色をほんのり淡くしたような、紫の気配を強くしたような、明るく、でもどこか憂いを帯びたような青紫色だ。

かつて強く憧れた浅葱色。そこから長い年月が過ぎて少しくすみがかった、今の私に相応しい色だと思った。

「花色」という言葉の裏には、かつて月草(今でいうツユクサ)の花から溢れ出る青い汁を、そのまま布に擦りつけて染め上げた「摺染」の記憶が眠っている。月草の青は、水に濡れると移ろいやすく、すぐ色褪せてしまう。平安の歌人たちは、その儚さに、人の心の変わりやすさを見出した。小大君は、薄花染めの狩衣に、人の心の移ろいを重ねて詠んでいる。

“人ごころ うす花染めの狩衣
さてだにあらで 色やかはらむ”

うす花染めの狩衣のように、あなたの心もこのまま変わっていってしまうのだろうか、と。

かつての都びとたちは、消えゆく水の色に自らの切ない情感を託していた。でも私にとって、薄花色は儚さの色なんかじゃない。むしろ、変わらずにずっと心のうちに持ってきたものの色。愛しい愛しい京都の街を流れる水だ。

あの街の「我が家」で

撮影は、家から始まった。
といいつつも、私にとって自宅はケの場所では全くない。なぜなら、何より愛しい鴨川と東山を望む我が家は、私にとっていつもいつまでも、特別な最高の場所、ハレの地だから。

薄花色の裾にモタモタしながら、玄関の扉を開ける。爪も同じ薄花色だ。
彼の胸元には、母が作ってくれたブートニアがドーンと鎮座する。すごい存在感だな。

いつもの道に、いつもの美しい光が落ちている。でもこの景色は私にとっていつも、当たり前じゃない、かけがえのない景色。いつも言っているけど、京都という街はただでさえ映画のワンシーンなのに、こうなったらもういよいよ映画のハイライトみたいだ。

 

かつて人や欲望を運んだ細い水脈に、宙ぶらりんな記憶を浸して

家を出て、私たちは高瀬川へ向かった。
高瀬川は、京都の街なかを静かに流れる。若者で賑わう木屋町を足早に通り抜けるとき、いそいそと先斗町の店へ向かうとき、この細く浅い水の流れは、京都の街に句読点をくれるような感じがする。どんな喧騒も、この川が浄化してくれている。

私にとって高瀬川は、派手な名所というより、ひとりの時間のそばにあった。東京から通っていた頃の夜、京都に住む前の、まだどこにも所属できていなかった頃の心細さ、好きな人と飲んだ帰り道、ひとりでホテルに戻る道、宙ぶらりんの気持ち。その全部のそばに、高瀬川の水音があった気がする。

この川は、江戸初期、角倉了以とその子・素庵によって開かれた運河で、京都市中と伏見を結ぶ物流の役割を担っていた。
森鴎外の小説でも有名な高瀬舟と呼ばれる平底の舟が物資を運び、京都の経済を支えた水路でもあった。川沿いには今も「舟入」と呼ばれる船の方向転換や荷下ろしをするための入江の跡が残り、当時の賑わいを静かに伝えている。
一之船入から七之舟入まで、それぞれ個性があるから北から南に歩くだけでも楽しい。

この細い水は、かつて人や物や金や欲望を運んでいた。京都の暮らしを、実際に動かしていた。かつて物流のために開かれた人工の水脈。

その水辺を薄花色のドレスで歩いている。人々を潤した水が、私のドレスを映す。京都の美しさは、いつもこういうところにあると思う。ただ古いから美しいのではない。誰かの必要があり、工夫があり、生きるための仕組みがあって、それが長い時間を経て、いつの間にかこの街の、この街らしい美しさに変わっている。

 

文化財に生きる人の体温

高瀬川沿いにどんと構える、昭和初期建立の総檜造りの大建築。元料理旅館〈鶴清〉の前を通るたび、いつもちょっとワクワクソワソワする。

ここには、静寂な古都という言葉だけでは収まりきらない、京都の華やかで人間くさい顔がある。人々が集い、祝い、婚礼を挙げてきた、誰かの晴れの日を支え続ける生きた空間だ。整った庭園の美しさとは違う、宴のざわめきやもてなしの気配が、建物の奥に今も息づいている。

そして私は、この広大な木造建築を維持し続ける4代目の田中社長のことが密かに大好きだ。すらっとした出立ちで、誠実で、料理人としての清潔な緊張感と、老舗を背負う人の静かな覚悟が、佇まいにそのまま出ているような人だと思う。

かつての料理旅館としての運営はなくなり、今は料理処となっている。団体旅行も、大宴会も、昔のようには戻らない。人件費も上がり、これだけの大きな木造建築を維持し、料理旅館として動かし続けることが、どれほど大変なことか。外から見ている私には、その苦労は想像しきれない。けれど朝に夕に、準備に勤しむ田中社長の姿を目にするたび、私はいつも胸の奥がじんわりする。

この記事を書いている今日も、田中社長がお見送りのお客さんの靴を出していた。あああ、この人が、この建物を今日も生かしている。文化財として飾るのではなく、いまも火を入れ、人を迎え、場所を生かし続ける。京都の風景とは、それを守る「人の営み」があって初めて完成するものなのだ。

その歴史が染み込んだ石の階段に、私は薄花色のドレスで立った。セットではない。長い時間、人が踏み、川音を聞き、そこに出入りした人々の記憶が宿る場所だからこそ、一枚の写真に圧倒的な強さが宿る。近代の京都が水辺に残した宴の記憶と、それを今も守ろうとする人の覚悟が重なる。

高瀬川の水音を聞きながら思った。ただ京都を眺める人ではなく、この街の風景を作り、その時間にほんの少しでも手を入れられる人間でありたい。

 

「おめでとう」が風になる、生活のど真ん中で

さらに北へ進むと、連休ど真ん中の出町デルタは、人が溢れていた。

目立つ。それはもう、どう考えても目立つ。すれ違う人たちが、こちらを見る。犬の散歩をしていた老夫婦が、少し笑う。小さな男の子を連れたご家族が声をかけてくれる。
「おめでとうございます」

京都の初夏の風が、ドレスの裾をふわりと揺らした。私は、大好きな「薫風」がドレスをなでる。新緑の梢を揺らし、川面を渡り、誰かの頬を少しだけ撫でていく風。ああ、この街を自由に駆けめぐる風になれたらいいのに。

川の流れを受け止める場所の愛称

賀茂川と高野川が出会い、そこから鴨川として南へ流れていく場所。上から見ると三角形に見えることから、いつしか「デルタ」と呼ばれるようになった。もっとも、地理用語としてのデルタ、つまり河口に土砂が堆積してできる三角洲とは成因が違う。

河川関係者のあいだでは、その形から「剣先」と呼ばれることがあるらしい。河川施設としては、川の流れを導くための導流堤というのが正しいのだという。この場所は、ただのかわいい三角形ではない。川の流れを受け止め、分け、導くためにつくられた、れっきとした構造物でもある。

けれどそんな正確さとは別のところで、この場所は「出町デルタ」あるいは「鴨川デルタ」という名前で、すっかり京都の人々、どころか世界中の人に親しまれている(早朝にランニングをしていると、日本人より朝早くから外国人観光客が飛び石を渡っている)。正式名よりも、通称のほうが場所の体温を持つことがある。出町デルタも、まさにそういう場所だと思う。

心がふっと裸足になる糺河原

デルタは、京都の名所なのに、名所らしくない。
拝観料も門も、京都市や文化庁が置く由緒書きもない。誰でも勝せて座れるし、パンを食べてもいい(トンビに取られるけれど)。恋人たちがレジャーシートで抱き合って横になっていても、大人が半裸で川遊びをしても、学生が足をつけながら本を読んでも、新歓サークルが大きな声で青春を謳歌してもいい。

京都には、靴を脱ぎ、頭をもたげ、言葉を飲み込んで順路に従うことで、ようやく見えてくる美しさを持つ、背筋が伸びる場所が多い。それはそれで美しい。

が、出町デルタでは少し違う。人はもっとだらしなく、もっと無防備で、もっと自由にいられる。
京都の生活が、ふっと裸足になる場所だ。私は母が作ってくれたブーケ(彼のブートニアともちろんお揃い)を高らかに掲げた。

足利義政の能舞台から、不要を包み込む「何の用もなさ」へ

この、何の用もなく人が集まれる空気感には、実は千有余年の奥行きがある。

古くは糺河原と呼ばれ、川が合流する広く開けたこの場所は、室町時代には足利義政の後援のもと、観世大夫による大規模な勧進能が催されるなど、古来より人々が集い、何かを見届ける場所だった。ある時代には川の流れを導く導流堤、ある時代には芸能の河原、またある時代には街なかの開けた空地として臨時のヘリポート。
ここは常に、時代ごとの必要を柔軟に受け止めてきた。

京都はお参りや庭園など、目的を持って訪れたい場所がたくさんあるけれど、デルタでは何もしなくていい。ただ座って、川を見て、風に吹かれていればいい。

今、何の用もなくこの場所に身を委ねる私たちの風景の奥に、かつて能を見物した人々のざわめきが、ほんの少し重なる気がする。かつて「用」だったこの地が今、人々の「不要」を包んで守ってくれている。

住民が上書きしていく行政の意図

飛び石もまた、この場所らしい。亀や鳥の形をした石を、子どもも大人も少し楽しそうに渡っていく。今ではすっかり出町デルタの愛らしい風景になっているけれど、あれは最初から「かわいい飛び石」として作られたものではないという。

もともとは、川の床が削られるのを防ぐための構造物だった。ところが、川を渡るのにあまりに都合がよかったため、住民たちが当初の設置目的に反して、いつの間にか勝手に渡るようになってしまった。

使うなと言われても、便利なものは使われる。人間とは、そういうものだ。けれど、そのままでは足場が狭くて渡りにくい。危ないという声も出る。
そこで、渡る人たちのために、より安全に、より楽しく渡れるよう整えられていった。行政の意図を、住民の身体感覚が軽やかに上書きしていく。その結果、ただの河川構造物が、京都でいちばん平和な遊具みたいな顔をしている。

とても愉快でいい話だ。上から与えられたものを、そのままありがたがることはないけど、真っ向から否定することもない。使いながら、ずらす。暮らしの都合に合わせて、少し変える。そして気づけば、それが京都らしさと呼ばれる風景になっている。

出町デルタの飛び石は、その小さな象徴のように見える。最初から「美しいもの」として作られたわけではないものが、使われ、愛され、少しずつ街の顔になっていく。京都には、そういう美しさがたくさんある。

人間関係のすべての余白を引き受ける、鴨川の真理

かつて、友人(中京に暮らす生粋の京都人)が昔言った。

“鴨川なら、どんなおもんない人とでもデートがなんとかなってまうんよ”

気持ちのいい暴論だ。でも、私はわりと本気でそう思っている。鴨川を見ていたら、心が穏やかになるし、なんとなく楽しい、幸せな気持ちになる。少なくとも、鴨川を見ながら後ろ向きな話はしにくい。

逆に言えば、鴨川を前にしても楽しく過ごせない恋人とは、もうさすがに無理なのではないかと思う。私も実際、今の彼と付き合っている頃、鴨川を前にすれば、言いにくいことも少しは言えた。話し合いも、なんとかなった。

もちろん万能ではない。恋人と関係が危うくなった友人にそれを勧めたら、全然うまくいかず、鴨川で気まずくなって帰ってきたこともある。

あのですね。鴨川でダメなら、もうダメです。
そんな乱暴な結論さえ、なぜかこの川の前では許される気がする。それくらい鴨川は、人間関係の余白を引き受けてくれる場所なのだと思う。

河原から森へ、木漏れ日の中

デルタの光を後にして、糺の森へ入った。
あの森は、入口を越えた瞬間に空気が変わる。すぐそこのデルタの賑わいが、すっと遠のく。人の声はあるのに、森全体がそれを静かに吸い込んでしまう。

糺の森は、下鴨神社の神域に広がる森だ。京都の街なかにありながら、土の匂いと木漏れ日と水の気配が、今も濃く残っている。

薄花色のドレスは、ここで一番静かに見えた。高瀬川では水辺の光を受け、出町デルタでは風に膨んでいた青が、糺の森では緑の奥へ沈んでいく。糺の森の中を流れる御手洗池・御手洗川の水は、下鴨神社の信仰とも深く結びついている。
御手洗祭についてはコチラ▶︎恋と言わじ御手洗川の禊|【下鴨神社】足つけ神事、在原業平と恋を洗う

この森の水は、ただ涼しいだけじゃない。人が祈り、身を清め、健やかであることを願ってきた水だ。
糺の森に立つと、私はいつも少しだけ静かになる。世の中には、言葉にしない方がいいものもある。

終着点は明治人の覚悟の水

旅路の終着点は、南禅寺参道菊水だった。

南禅寺界隈には、京都の中でも特別な晴れやかさがある。別格本山としての南禅寺の気配、すぐ後ろに聳える東山の緑、別荘文化の余韻。そして、疏水の水音。

菊水についてはコチラ▶︎私の迎賓館【南禅寺参道 菊水】庭を守るという経営

この辺りを訪れる人は「京都らしい」と簡単に言う。
けれど南禅寺周辺の風景は、古いものがただ残っているだけで生まれたものではない。琵琶湖疏水は、東京遷都後の京都の衰退を乗り越えるために計画された近代の大事業だった。第一疏水は明治23年に完成し、その建設費は当時の京都府年間予算の約二倍にあたるほどだったとされる。

いま私たちが「京都らしい」と感じる水路や庭や岡崎・南禅寺界隈の景色の背後には、明治の京都人たちの強烈な危機感と覚悟がある。そう思うと、菊水の前に立つ時間も、ただ美しいだけでは終わらない。
この門前に流れている水は、誰かの覚悟の続きだ。この庭の静けさも、ただの贅沢ではない。人が街を生かそうとしてきた、その積み重ねの上にある。

美しさの奥にある、人の手と体温

京都は、美しい。
でもその美しさは、いつも少しだけ生々しい。祈りがあり、政治があり、商いがあり、土木があり、宴があり、生活がある。その全部が時間の中で沈殿して、やがて美意識と呼ばれるものになっていく。

だから私は、この街をただ消費したくない。綺麗だった、素敵だった、で終わらせたくない。
この街の美しさの奥にある、人の手と体温と覚悟まで、掬い上げて見つめていたい。
その思いを、私はこの日、薄花色のドレスに託していたのかもしれない。

 

白に染まらない私のままで、この街の風景を作りたい

京都に恋して20年。
京都は、簡単には人を受け入れてくれない。たぶんこれからも、私はこの街に片想いし続けるのだと思う。私はこれからも、この一筋縄ではいかない、けれどどうしようもなく愛おしい街を歩いていく。

水辺をたどるように。地層を踏みしめるように。自分の言葉で、何度でも。いつか、私もこの街の風景を作りたい。

誰のものでもない、私だけの青を纏って。

京都に、成る④|京都と心中する。 ─愛しい景色の一部として生きていく─
2026.05.03
京都に、成る③|八坂の塔と 108本のバラ ー煩悩を抱えて、この街で生きていくー
2026.04.21
京都に、成る②| プレゼンされた恋 ー阿弥陀の救済ー
2026.04.18
京都に、成る①| 鴨川のベランダで私は「降参」した ー兼好法師の美意識を継いでー
2026.04.09