オーナーソムリエ 小林弘毅さん

ワインと旬の野菜 barchetta
私の人生の乱高下を知るワインイタリアン

東京のゲストからディナーを頼まれたら

東京から来た友人に「行きつけに連れてって」と言われたら。そしておばんざいでなくていいと言われたら。相手がワインを飲める人なら。問答無用でここ一択だと思う。
かれこれ10年近く通っている店が、烏丸松原の西に入ったところにある。四条と五条のちょうど間くらい、〈バルケッタ〉というワインイタリアンだ。

店主の小林さんは、私の人生のピークとどん底を見てきたと言っても過言ではない。こういう時は大体過言なのだけど、多分本当に過言ではない。
小林さんが目撃した私の乱高下と言ったら、そらもう。

肩書きに左右されないブラインドテイスト

小林さんは、和食の修行も積んだシェフであり、ソムリエでもある。
つまりそう、私たち日本人の口に合うイタリアンを出してくれる。特に面白いポイントは2つ。

一つは、グラスのワインリストに銘柄や国が何も書いていない、いわゆる“ブランドテイスト”を採用していること。リストを見ると、赤白それぞれが「スッキリ系の白」「まろやか系の白」「本日のちょっといい白」という記載になっている。
なので例えば「この鴨生ハムに合う、まろやか系の白をください」というと、小林さんがいい感じのものを選んでくれる。

そしてワイン通の常連さんたちは「南フランスかなあ」「ピノ・ノワールかなあ」と言いながら、めいめい楽しんでいる。
でも私はここで何を飲んでも食べても「美味しいなあ」とばかり言っている。いくらここに通っても全然そのあたりの味覚が磨かれない。小林さんに「理沙ちゃんもそろそろソムリエ試験受けや〜」と言われても、合格できる未来が全く見えない。

小林流マリアージュの奥義

二つ目は、小林さん独自の理論に基づいたマリアージュの秘訣があること。
よく、“魚には白、肉には赤”といいますよね。でもバルケッタは違う。小林さんはもう全然そんなことは言わない。
ここでは鱧のパスタに赤を合わせるし、牛ほほ肉の赤ワイン煮に白を合わせる。

私が覚えている範囲で小林さんの理論は3つ。まず国で合わせる、次いで温度で合わせる、そして色で合わせる。

まず国は、その地域の料理にはその地域のワインが合うということ。フランスの料理ラタトゥイユには、フランスのワインが合う。和食に日本酒が合う、考えれば当たり前のことですね。韓国料理にはマッコリだし中華には紹興酒。でもワインだとなぜか私たちは急にそれを忘れちゃう。

次いで、温度。冷たいお料理には冷たいの。あったかい料理には、常温にしたぬるいの。同じワインでも、温度で合わせるご飯が変わる。

そして、色。白身魚は白だけど赤身魚は赤が合う。そしてカルパッチョのような生魚なら色が白いから白が合うけど、火を通して茶色い焦げ目がついたら赤が合う。肉も、鶏肉のような白い肉なら白、赤味の牛肉なら赤。

これが小林さんの勝ち筋。どうです、面白いでしょう。

夏の始まりと終わりを告げる一皿

小林さんの料理は何でも美味しいし、ここの料理で季節を感じてる。春のホタルイカとか桜鯛のパスタも気持ちがウキウキする。でも1番お気に入りは、夏の始まりかもしれない。

まず、鮎のコンフィ。きゅうりと酢をベースにしたと思われる酸味のあるソースをたっぷりつけて、スプーンで食べる。ふっくらした鮎の味わいの、もう深いこと深いこと。淡白だけど、確かな味。そしてソースとからめた肝のほろ苦さ。ワインにも合いすぎる。
最近は鮎が不漁で、その時期に行ってもお店にないことも。サイズもどうやら小ぶりになっているらしい。でもこれを食べないと夏が始まらないので、「理沙ちゃんが行く時に取っておくから連絡してや〜」と小林さんが言ってくださるのに甘えている。でもこの夏は忙しすぎて行けなかったなあ。

料理は産地じゃないと教えられる鱧料理

それから、ここで初めて鱧を心から美味しいと思ったことを忘れはしない。
6月後半くらいから鱧が出てくるんだけど、夏に京都の居酒屋や安い床の店で、パサパサに湯引きして梅肉をつけた鱧が出てくるじゃないですか。あれ、本当にやめてほしくて。あれを食べた人が関東の人が「鱧って初めて食べた。こんな感じなんだね」と言われるのが悔しいことこの上ない。

ああ、東京の人に小林さんの鱧をぜひ食べさせたい。ここの鱧とナスとトマトのパスタがすごいのなんの。身がプリッとして、セミドライみたいな、火は通してあるけど半生のような感じ。皮も味わいがあって。そして皮を剥いたナスが甘くて香ばしくて美味しくて、パスタに絡まって。これを食べずには夏を超えられない。

そしてぜひ食べたいのが、祇園祭の宵山の夜なのだ。宵山と言っても先祭の16日や後祭の22日。本当の前日、本当の宵山の夜だ。
店の前の松原通りを日和神楽という山鉾のお囃子ご一行がお囃子を慣らしながら通る。くるのは21時過ぎなので一行を待ちながらこのパスタを食べて、ワインを飲む。遠くからお囃子が聞こえてきたら店の外に出て、拍手をしながら見送る。一行の影が遠くなったらまた中にすごすごと戻ってワインを飲む。
祇園祭は別名”鱧祭り”ともいうが、私の中では、このパスタは祇園祭とセットの料理だ。

ちなみに京都で鱧が獲れるはずはなく、愛媛の大洲や淡路島が名産だ。どちらの地域とも仕事をしたことがあり、そこでは鱧を安価に食べられる。
でも京都に鱧のイメージがあるのはやっぱり、料亭をはじめ調理法が優れている店がたくさんあるからだと思う。産地で獲れた新鮮な鱧より、京都のちゃんとしたお店で食べる鱧の方が美味しい。残念ながら。

鬱々とした日々で出会ったシェルター

初めてここに来たのは、25歳の春。
会社に入って4年目、新規事業を任されるようになった頃。それまでは京都に来るお金と時間をかけてせっせと日本中の地域に遊びに行っていたけど、もう致死量まで京都が不足していた。
そうして限界まで心が埃っぽくなったり、カサカサになったりすると、一人で京都に来た。ゴールデンウイークを利用して京都に1週間くらい滞在していた気がする。

あの頃はもう、何もかもに鬱々していた。
仕事は辛いし周りの目も怖いし、男の人ともうまくいっていなかった。もう終わっていた。いや、始まってもなかった。そして何より、京都に住んで京都の仕事がしたかった。
そんな中で和泉式部の和歌を口に出して読んだりお寺の門の木目を撫でてみたり鴨川沿いの荒神口より上がったあたりにあるベンチにゴロンとすると、少しだけ心が潤う気がした。

でも一方で、京都に来ると、自分が何者でもないことに焦った。京都が大好きで大好きで、でも、この街において私はなんでもなくて。この街が必要とする人になれなくて。ここにいるのに、京都がどこまでも遠くて。悲しくて仕方なかった。結論、京都にいてもいなくても悲しかった日々だった。
そんな時代も全部知っているのが小林さんだ。

若い女が一人でのんびり飲む難しさ

あの時ここに行き着いた理由は多分二つあって、一つ目に、一人でのんびり飲めること。二つ目に、一人でいろんなものをちょっとずつ食べられること。そんな店を探していた時に出会った店の一つが、バルケッタだった。雑誌で“女性が一人飲みできる店”として紹介されていた気がする。

まず一つ目。一人で飲んでいて困ったのが、居酒屋やカウンターのような店で25歳くらいの女が一人で飲んでいると、お節介な男性が声をかけてくることだ。いやこっちは一人で飲みたいんだよ。ナンパされに来てるんじゃない、メソメソしに来てるんだ。
ここで声を大にして言いたい。一人で飲みに来てる女は一人で飲みたいから来てるんです。否、例外もあるかもしれないけど私はそうです。

一転、バルケッタは、お客さんの質が良い。こう書くと身も蓋もないけど本当にそうなのだ。ここの常連さんは本当に品がいい。大学教授やお医者さんをはじめ、ワインを純粋に楽しむ腰の低い紳士淑女で溢れていて、安心できる。
それは小林さんが来店の瞬間にゲストを見抜いているから。「ん?」と思う人が店に入ってくると、私以外ゲストが誰もいなくても平気で「満席です〜」と柔らかい口調で言う。さすが生粋の京都人。初めて目の当たりにした時は「これが京都か!」と思ったものだ。
そしてもし食事中に絡んでくる人がいようものなら、品のいい常連さんたちが女性を守ってくれる。

おひとり様の強い味方

それから二つ目。その25歳の1週間ほど滞在していた春。食事を1日5食くらい食べていたら、お腹を壊した。
私は自他共に認める食いしん坊なので、食べたいものを全部頼んじゃうのだ。そうすると当然、お腹がいっぱいになる。でも食べ物を残してはいけないと強く思っているので、頑張って食べる。案の定、腹痛に襲われた。
考えてみればそもそも一人で店に行くとたくさんの種類を食べられなくて悲しい。居酒屋や割烹は一人前のものや小鉢があるけれど、ビストロやイタリアンは2-3人前のものが多い。そこで私は思い直し、一人用のセットがある店を探した。

バルケッタは〈おひとり様セット〉なるものがあって、冷菜2種/温菜1種/パスタかリゾットがそれぞれ全て選べる超豪華セットだ。なんとこれで当時は衝撃の2400円くらいだったかな。
大体お決まりのパターンがあって、冷菜は、私が大好きな鴨の生ハム。もう本当に、ずーっと口の中にいてほしい甘さなのよね。鴨の香りもたまらんし。

温菜は自家製パンチェッタと蒸しナスのソテーがお気に入り。パンチェッタのジューシーな油となすの甘さを、バルサミコ酢ソースがきれいにコーティングしてまとめ上げる。

他にもスモークチーズのブルーベリーソースも美味しいし、自家製バーニャカウダはお野菜がたくさん食べられるから歳を重ねることに重宝するようになった。

そして小林さんのパスタとリゾットがまた美味しいのなんのって。具材はいらない。シンプルなバターとチーズのリゾットとかチーズのパスタが最高なのだ。これを食べると、豪華な具材で誤魔化してるパスタがアホらしくなる。

一度食いしん坊を発揮して、おひとり様セットを2回頼んだことがある。あれは流石に食べ過ぎだった。でもそれくらい、美味しいけど重たくない、いくらでも食べられちゃうのが小林さんの料理なのだ。

私が思ういい男の条件

突然だが、小林さんは、いい男だ。話し方はおっとりしてるけどピリッとした冷たさの中にあったかさがあって、さりげない優しさが溢れている。
ちなみに私は、ゆっくり話す人が好きだ。自分が早口だからか、ベラベラ早口で喋る人は好きじゃない。

と思えば一方で、マイペースにダラダラ冗長に話す人はイライラしてしまって全然好きじゃない。待てない私はつい言葉を重ねてしまう。多分ゆっくり話すというか、ゆったりした時間の流れを纏っているけど聞き上手で相手に合わせられる高度な人間が好きということかもしれない。そしてそのくらい私が幼いのかもしれない。

20代のどん底の話をしよう。

小林さんはいい男なので、ピアノを弾く。ピアノ歴45年の猛者で、その腕前は並大抵のものではない。そして多分、料理よりワインより、ピアノが好きだと思う。
お客さんが少ない時など小林さんがピアノを弾いてくれたり、プロを呼んだジャズコンサートなどをやったりする。音楽を嗜む常連さんも多く、サックスやらフルートやら集まって演奏することもある。

店に通い出して1年くらいか、26歳くらいの頃だったと思う。京都出張に来ていて、カウンターの端っこでパソコンをこっそり広げて(※本当はよくない)、仕事をしながらご飯を食べていた。
あの時はもう24時間365日仕事をしているような感覚で、初めてのプロジェクトばかりの中で思うようにならないことも多くて、物理的にも精神的にもギリギリだった。
その日は平日で、たまたまお客さんが私しかいなかった。よほどしんどそうに見えたのだろうか。小林さんがといった。

「何か、弾こうか」

店内の奥にあるピアノへ小林さんが向かう。
そっと弾き始めたのはベートーヴェンの「悲愴」。ベートーヴェンが作曲家として活動し光を浴び始めた矢先、難聴の症状に悩まされるようになった頃に作った曲。でも、悲しさの中に穏やかな諦め、そして少しだけ前に進もうとする明るさがある名曲だ。

ピアノの切ない音色に耳を傾けてワインを飲みながら、ぽろぽろと泣いた。ご飯もワインも美味しい。この空間は優しくて心地いい。
でも、いや、だからこそ気づいた。悲しくてたまらないことに。

弾き終わった小林さんがぼそっとつぶやいた。
「しんどそうやなあ」

もう、生きるのがしんどかった。目の前の仕事は大変で、これからのことが真っ暗で、あったかく包んでくれる人もいなくて、夢見る世界は遥か遠くて、そこに行く道標もなくて。
私はワンワン泣いた。それはもう、声を出しながら。小林さんとスタッフのお姉さんの前で、恥じらいもなく。
25を超えた女が人前であんなふうに泣くことはそうそうないと思う。今思えばこの上なく変な女だし、あの時誰もいなくてよかったし、小林さんとお姉さんはとんでもなく優しかった。

大学に入って挫折を味わった時(夢やぶれ、東山ありへ)を10代のどん底とすれば、あれは20代のどん底だったかもしれない。この店は、小林さんは、私の20代のどん底と30代のどん底(暫定)を知ってる。

憧れの”生まれ年のワイン”

もう少し、小林さんがいかにいい男かということを伝えたい。
大晦日生まれの私。28歳になる大晦日に小林さんがしきりに「年末に京都来るならうち寄ってな」と言ってくれた。
なんだろうと思いながら結局その年末は色々あって東京で年を越さねばならず、上洛できなかった。バルケッタを訪れたのは1月の三連休、成人の日の頃だった。今思えばその数ヶ月にはコロナの緊急事態宣言が発動された。

「りさちゃんにお祝い用意しててん」
出されたのは、“1991”と書かれた白ワインだった。私と同じ、1991年生まれのワイン。

夢みたいだった。あんなに言ってくれたのに誕生日に行かなかったことを心苦しく思うと同時に、こんな私のために用意してくれたことを嬉しく思った。
コルクはもう崩れかけていて、開けるのは至難の業で、プロにしかできないように見えた。

色は琥珀色のようなクリーム色のような。口に入れると、落ち着いた深みの中にまだ若さがあって、濃厚だけどしつこくない味わいがした。気がする。重ねて言うが、私はワインが大好きでべらぼうに飲むけど、特段詳しいわけでも味の違いがわかるわけでもない。その自覚はある。
でも、29年熟成したワインは、私同じ年月を重ねてきたとは思えない芳醇な香りと味わいだった。私にはまだまだこんな深みも美しさもない。かといってキラリと光る若い輝きもない。小さな、いや大きな敗北感だった。

「美味しいなあ」と一緒に飲む小林さんを見ながら、こんな素敵な場所に出会えて心からよかったと思った。人生は今のところうまく行かないことだらけだけど、憧れの京都の地で、こんな風に私を迎えてくれる人がいる。私の誕生日を思い出して、生まれ年のワインを用意してくれる人がいる。

砂漠にぽとんと落ちた一滴の水みたいに、小林さんの優しさが沁みた。
ボトルは今、常連さんたちのボトルに連なって、ちょこんと並んでいる。カウンターに座ったら探してみて。

叱ってくれる貴重な飲み屋

大学院に通っていたときは、よくいろんな同級生とここへ飲みに来た。同級生と言っても年齢も背景も現在の家庭環境もバラバラ。でも学びたいという思いを同じくして集まった仲間たち。
土曜日の授業後の飲み会がえらい楽しくて、それはもう、なんと言ったらいいのか、生き甲斐みたいなものだった。

2年生の夏の終わりだったろうか、よく飲みに行く気の置けない数人で訪れた日、私はもう嬉しくてしょうがなくて、例の如くモリモリと食べて、大いに飲んだ。どうやって帰ったのかはもちろん覚えていない。でも写真を見る限りとんでもなく陽気な顔をしていて、すごく楽しかったんだろうと推察する。

少し間を開けて一人で夕食を食べに訪れた時のこと。いつも通り穏やかな口調で小林さんがいった。
「あんなアホみたいに飲んだらあかんで。理沙ちゃんに付き合ってくれるあのお友達らは優しいなあ。感謝しい。」

齢30にもなってお酒の飲み方を嗜められるなんて恥ずかしい。でも、こんなふうに叱ってくれる飲み屋を私は他に知らない。34歳を前にして、お酒の飲み方も少しは気をつけるようになった。そろそろ小林さんに飲み方を褒められたい。

30代のどん底の話をしよう。

30代のどん底(暫定)、そんな日も小林さんのところにいた。2023年、もう2年前だ。会社を辞めて独立して京都に完全移住した、初めての大晦日。
誕生日を迎えた朝、起きると歯がどうしようもなく痛かった。よく考えると痛みで目が覚めた。近所の二条駅近くにある救急外来にかかると、親知らずがひどく腫れているそうな。
とはいえ年末で治療の施しようもないので痛み止めを処方され、年明けに親知らずを抜くようにと指示されてとぼとぼと帰ってきた。

夕方からシェアアパートの皆が一緒に飲もうと誘ってくれたけど、20時頃に一人でバルケッタへ向かった。なんとなく一人でいたい気持ちだった。
例年、バルケッタはその場にいるお客さん(常連さんが多い)で年越しを祝う。31日の22:30くらいになるともうフードのオーダーストップがかかり、小林さんは片付けをしながら一緒に飲み始める。
そしてカウントダウンを皆で唱えて、一斉にクラッカーを鳴らす。すかさずお祝いのシャンパンを小林さんが振舞ってくれる。その場に居合わせた全員で乾杯。ただただ陽気で楽しい時間だ。
小林さんが「今年くらいおいでや〜」と何度も誘ってくれたのもあり、せっかく引っ越したんだから今年は行ってみるかと思い、重い腰を上げて足を運んだ。

歯が痛いのでお酒をほどほどにする私に、小林さんが誕生日プレートを出してくれた。ここで働くパティシエのスタッフさんが、私に作っておいてくれたのだそう。甘すぎないチョコロールはしっとりしていてくどくなくて上品な味わいで、食べながらまた涙を堪えた。この店はいつだって、私をあったかく包んでくれる。

カウントダウンを終えるとタクシーで方広寺へ向かい、鐘を聞きに行った。
薬で痛みは和らいだけどひどく腫れた頬に手を当てながら、激動の一年をなんとか耐えた自分を誉めた。
嬉しいこと、楽しいこと、幸せなこともたくさんあった。でも、新しい仕事はめちゃくちゃハードでしんどくて、前の出版社から引き受けた仕事も重たくて、起きてる時間はずっと仕事をしていた。夏の終わりには転んで両足首を捻挫して2ヶ月の松葉杖生活になるし、その間に疲労とストレスで40℃の熱が出て入院するし。冬になって冷えこむと足首はまだ痛んだ。

そして何より、寂しかった。家族や友達がいるとかそういうことじゃなく、ひとりぼっちだった。好きだった人にも会えなくなっちゃって、悲しいことも切ない時もたくさんあって、心にぽっかり穴が空いて、そこに吹く隙間風で息苦しかった。振り返れば、毎日泣いていた夜もあったっけ。

でも、ひとりぼっちでなんとかここまで生きた。よく頑張ったなあ自分、と思いながら鐘の音を聴いた。褒めてくれる人は横にいないから、自分で自分を褒めて、新たな年をしんみりと迎え入れた。
メソメソを終えてタクシーで店まで戻ろうと思ったら全然捕まらなくて、またしょんぼり歩いた。ドアを開けると小林さんが「おかえり」と言ってくれた。

お隣さんは文筆の神様

ほろ酔いで小林さんに見送られた後に必ず手を合わせるのが、東隣にある小さな小さな神社。
新玉津島神社だ。ここは、平安末期の歌人・藤原俊成が、自邸の敷地に和歌の神・衣通郎姫(そとおしのいらつめ)を勧請して祀ったのがはじまりと伝えられる場所。俊成は後白河法皇の命により、この邸宅を〈和歌所〉として『千載和歌集』の編纂を始めたという。
戦乱の中、俊成の門弟であった平忠度が危険を顧みず、ここに自作の歌を託しに戻った逸話も残っている。

さざなみや 志賀の都は あれにしを
むかしながらの 山さくらかな

滅びゆく都を詠んだその一首を、俊成は千載和歌集に選んだ。絶望の中にも、なお言葉を信じる心があった。

そして江戸時代には、松尾芭蕉の師である北村季吟がこの神社の宮司を務め、万葉集の注釈書を編んだという。時代を越えて、ここはずっと「言葉を紡ぐ人の祈り」を受けとめてきた場所だ。

私はその境内で、いつも手を合わせる。
“いつか、私の文章が誰かの心に届きますように”

祈りとは、上達や成功を願うことだけじゃない。言葉とひとえに向き合い続けたいという、小さな、誠実な、切実な誓いのようなもの。言葉を紡ぐものとしての誓い。
書くことと生きること。そのあいだをつなぐように、この小さな神社は、今日も静かにそこにある。

私の周囲さえ、受け止めてくれる

最近は新店開拓に注力していることもあり店に行くことが減ってしまった。でもある日訪れた折に「彼氏ができたけど色々不安だ」というような主旨のことを言ったら、小林さんが「よかったなあ。連れておいで」と言ってくれた。
一緒に店に行くと、後日「ええ子やん」と褒めてくれた。そして彼にこう言った。
「これからはここに一人できてりさちゃんの愚痴言ったらええよ」と。勘弁してよ。

独りでどん底の時も、幸せに溢れた楽しい時も、恥ずかしいような嬉しい時も、どんな私も受け入れてくれる場所。ちょうどいい距離感で。
ゆったりした京都弁をピシャッと放ちながら、そっと見守ってくれてる小林さん。

もしカウンターで酔っ払ってる私を見つけたら、小林さんと3人で乾杯しましょ。

ワインと旬の野菜 barchetta
〒600-8427
京都府京都市下京区松原通烏丸西入玉津島町307