庭師 平林敬祐さん

南禅寺参道 菊水
私の迎賓館の庭の守り人

平林さんという時間軸

南禅寺参道 菊水の庭は、美しい。
でも私は、あの庭を単なる“風景”として見たことは一度もない。

なぜなら、そこにはいつも
平林さんのまなざしがあるからだ。

南禅寺界隈別邸群に位置する〈南禅寺参道 菊水〉についてはこちらで綴っている。
▶︎私の迎賓館【南禅寺参道 菊水】庭を守るという経営

ピカピカに磨き上げられたガラス越しに庭を眺めながら食事をしていると、よく平林さんの背中がみえる。
苔を整える丸まった背中を眺めながら、ここは桃源郷だろうかと思ったりする。

平林さんの姿をウォーリーのように探しながら飲むワインは、格別に美味しい。

 茶室で「ぼーっとする」人

庭の一番奥にある茶室。
そこまで進んでいいのかちょっと悩む、静かなる空間。

平林さんは言った。

「この景色が好きで。ここで、ぼーっとするのがいいんです。」

手入れをする人でありながら、まず風景の中に身を置く人。
管理するのではなく、時間を味わう人

その一言で、この庭の美しさの理由がわかった気がした。

私の迎賓館を彩る設え

館内にさりげなく置かれている植物や季節のあしらいは、平林さんが庭の植物で作ったもの。
庭に咲く小さな花や草木を摘んでいる姿を想像するだけで、ニンマリしてしまう。

竹細工やちょっとした器なんかも作っちゃう。
「これ、僕が作ったんです…色々余り物も使って…」と節目がちに呟く平林さんに、キュンとする。

一つ一つが丁寧で、手の温もりを感じて、季節を切り取っていて、美しい。
あの、よかったら、大変図々しいのですが、私にも作ってくれませんか?

そういえば、お正月の門前の飾り付けもえらく可愛かった。

もう庭師という枠を超えてデザイナーというかアーティストみたいと思うけど、そんな横文字の言葉を平林さんは必ずしも喜ばないとも思う。

木々を見つめる目

庭の植物の話になると、平林さんの目はやわらかくなる。

苔の状態。松の枝ぶり。葉の色の変化。

愛おしそうに木々を見つめる目を見ていると、本当に本当に優しい。
そしてここに植えられた植物のことを語るとき、愛おしそうにしている。

「桜の元気がなくて…」子供を心配する親のようにいう。

この庭は管理されているのではなく、大切にされているのだとわかる。
そんな平林さんのファンは多い。私もその一人だ。

専属庭師という覚悟

平林さんは、中根金作庭園研究所で研鑽を積み、宮内庁でも経験を重ねてきた方だ。

その経歴の庭師が、菊水の社員として常駐している。
これは簡単なことではない。

専属庭師を置くということは、固定費を抱えるということ。
効率や利益だけを考えれば、出入りの庭師さんを雇ったり、外注した方がいい。

でも菊水はそうはしない。なぜなら、この庭が菊水の心臓であり、宝だから。

「水の流れが悪かったので、ここを掘って片付けたんです」
平林さんが何気なくいう言葉を冷静に想像し、「え、それすごく大変ですよね?」と但し返すと、
「まあ…」とさらりと流された。

繊細な仕事だけじゃなく、重労働で過酷な仕事もたくさんあるのが庭師だと思う。
そんな当たり前のことを気付かされた。

文化は人件費の塊

私は思う。

文化とは、形ではなく、人の中に宿るもの
文化の芯を守るということは、人の中に流れ続ける美意識を受け継いでいくということ。

庭という文化資本も、最終的には“人件費”の塊だ。

剪定する手、掃く手、水の流れを読む目。
それらがあってはじめて、疏水の水は“美しい庭”になる。

守るということは、費用がかかることを引き受けることだ。
菊水は、それを引き受けている。

水の続きにいる人

南禅寺界隈の庭は、疏水の水によって生まれた。

でも、水が流れているだけでは庭にはならない。
そこに立つ人がいるから、景色は景色であり続ける。

平林さんは、水の物語の続きにいる人だ。
私はこれからも、あの庭を見るたびに思い出すだろう。

この景色は、誰かの手の中にある。

この庭を見ながらいただくワインの美味しさ。ソムリエの樋口さんという人については、
▶︎私の迎賓館でワインを注ぐエンターテイナーで書いている。

南禅寺参道 菊水
〒606-8435
京都市左京区南禅寺福地町31番地