自転車で生きるべき街、京都
京都という街は、歩くには少し広すぎるし、車で巡るにはあまりに情緒を削ぎ落としてしまう。
1200年の地層が積み重なる路地(ろーじ)の奥。鴨川。その呼吸を肌で感じながら生きるには、自転車という乗り物が、たぶん最も贅沢で、最も京都的な選択肢なのだと思う。

今、私の部屋の片隅には、1台の自転車が静かに佇んでいる。
淡い浅葱色に彩られた、細くしなやかな鋼のフレーム。京都・岩倉に工房を構える〈VIGORE〉4代目見習い・片岡有紀が初めて世に送り出したモデル『Horizon -sen-』の、記念すべき「00」号機だ。
この自転車を見るたび、私は小さな背中を思い出す。
大学院の2年間。共に泣き、共にワインを飲み、床に転がりながら、京都という街で生き延びようとしていた、私の戦友の姿を。

出会いは「シャープな黒」の中に
私たちが初めて言葉を交わしたのは、2021年の4月か5月。同志社ビジネススクール(DBS)に入学して、1ヶ月ほど経った頃だった。

入学して初めてのマーケティングの授業。
先生は厳しく(本当は優しくて面倒見のいい素晴らしい先生なのだけど、この講義ではとかく怖かった)、教室には独特の緊張感が漂っていた。
広い教室の中で、最初、私たちは離れた席に座っていた。
けれど、彼女が作るプレゼン資料を初めてみた時、私はぞくっとした。
背景は深い黒。文字は潔い白。無駄を一切削ぎ落としたデザイン。あまりにもシャープで、格好よかった。

私も真似してみたけれど、同じにはならなかったので早々に諦めた。あの張りつめた空気は、技術ではなく、美意識そのものから滲み出ていたのだと思う。そして何より、資料の中身もよく練られていてハイレベルだった。
「この子と話したいかも」
そんな直感に突き動かされ、3回目くらいの授業で、私は意を決して彼女の近くの席へと移動した。
皆、大学の講義を思い出してほしい。ある程度座席が固定されたところでの席移動は多大な勇気が要るものだ。
当時、同世代の女性は全体の1割ほど。その中で、彼女はずば抜けて若く見えた。夏には半ズボンから膝小僧をのぞかせて歩く姿は、どこか少年のようでもあった。

最初の自己紹介で、彼女はこう言っていた。
「産業用ロボットを作る会社にいました。今は京都に戻って、社労士事務所で働いています」
自転車のことは、その時、彼女の口からは一言も出なかった。

背負うものを見つけた
大学院2回生になる頃だろうか。気づけば彼女は、自らのルーツを隠さなくなっていた。
「京都で父がハンドメイド自転車を作っていて、そこを手伝っています。」

言葉が変わると、人の輪郭も変わる。
自分がどこから来たのか。何を受け継ぐのか。どこに立つのか。それを、彼女は静かに引き受けていった。
卒業する頃には、「後継として頑張ります」と口にするようになっていた。修士論文のテーマは、「フレームビルダーの技能・技術継承に関する一考察」。
口頭審査で、私は号泣していた。
立派になってしまった。

それは誇らしさであり、同時に、自分だけ取り残されているような焦りでもあったかもしれない。
九十余年のバトンを受け継ぐ
ここで、彼女が命をかけて守ろうとしている〈VIGORE〉について、敬意を込めてきちんと書いておきたい。
VIGOREは、1929年に京都で鍛冶屋から始まった自転車ブランドである。
初代・片岡四郎氏が京都・岩倉で創業して以来、九十年以上にわたり、自転車というものづくりを続けてきた。

2代目の保氏は、五条大橋の欄干の擬宝珠を見て、インスピレーションを受けたという。
海外のレーシングバイクを追いかけるのではなく、自分たちの暮らす京都の風景の中から、自分たちの形を探そうとした。イタリアンでも海外の模倣でもない。京都というローカルな土地の感覚から生まれたものだった。
▼写真は三条大橋の擬宝珠

3代目・片岡聖登氏—私たちはオトンと呼ぶ—の代で、大きな転換があった。
かつてVIGOREは、競技用自転車の世界で名を馳せたブランドだった。1分1秒を争うレースの世界。速さを追い求め、勝つための自転車を作っていた。
けれどオトンは、ある時から、自転車を「競技」ではなく「単なる道具」でもなく「人生の愉しみのパートナ」として考えるようになった。
速く走るためではなく、その人がどんな時間を過ごすか。
どんな風を感じ、どんな景色を見て、どんなふうに歳を重ねるか。

そのための自転車へ。
競技のための自転車から、日常を愉しむための自転車へ。
必要なものだけを残し、不要なものを削ぎ落とす、引き算の思想。
辿り着いた素材は、クロモリ鋼だった。

流行を追うのではなく、普遍的な美しさを目指す。
飽きないこと。廃れないこと。永く乗れること。
それが、オトンの目指した自転車だった。

「乗り味」という思想
私はいつも、VIGOREのキャッチフレーズを見て、しみじみと納得する。
“機能的で美しい。”

VIGOREの自転車に乗っていて私が感じるのは、「乗りやすい」という感覚だ。
電動自転車みたいな“ラクさ”ではない。もっと自然に、身体が前へ出る感覚。スイスイ進むような感覚。
なんというか、背中を押してくれる感じなのだ。物理的にも、精神的にも。
私が前に進むための自転車。

オトンも片岡さんも、「乗り味」という言葉を使う。
“乗り味”。
誠にいい言葉だと思いません?速さでもスペックでもなく、その人の身体や時間にどう馴染むか。それを突き詰めている自転車ということをしみじみと思わせてくれる言葉だ。
理論と火花の狭間で
思い返せば、大学院で会う彼女は、時折真っ黒な手で教室に現れた。
「今日は煙臭いです」
「手がすごく汚いんです」
理論を学ぶ教室と、火花散る工房。彼女はその2つを往復しながら、文字通り泥臭く戦っていた。つい最近では、色白な腕を見せて「筋肉がついた」と笑う。

そして卒業した今、彼女はオトンの「感覚」を、自分の言葉へ翻訳しようとしている。秘伝や口伝として閉じるのではなく、いつか自分ではない誰かへ受け継ぐことまで考えて。
継承とは、ただ守ることではない。時代の中で更新し続けること。その苦しさごと引き受けること。
それが、彼女が命をかけているものだ。小さな身体で、九十余年の歴史のすべてを背負おうとしている。

大雨、狂乱の2年間の幕開け
話は2021年の大学院時代に戻る。心身を削ったマーケティングの授業の終わり頃だったろうか。私たちは同期数人を交えて初めて飲みに行った。

その日は、バケツをひっくり返したみたいな大雨だった。
びしょ濡れの靴を見ながら、「サンダルで来ればよかったなあ」とぼやいていた私が、酔っ払った末に他人のサンダルを履いて帰ってしまった時、彼女は腹を抱えて笑っていた。
なおこの夜は、店を出た瞬間、私が盛大にでんぐりかえしをしたという伝説も残っている。
あの日からだった。私たちが「同期」から、「飲み仲間」へ変わったのは。
そう、これが私たちの、狂乱の2年間の幕開けだった。

貧乏暇なし、洛中洛外を七転八倒
大学院時代、私たちは、常に崖っぷちにいた。

平日は深夜まで仕事。週末は朝から晩まで講義。その合間を縫って血を吐きながら課題をこなす。
私はホテル暮らしをしながら、キャリーケースを転がして京都を移動していた。
▼学校近くのコインランドリーで洗濯をする私

私たちの共通点は、自費で大学院に通っていたことだった。企業派遣組や、ホワイト企業に勤める人たちを、羨望のまなざしで見つめたこともある。
超薄給。超多忙。
そんな日々の中で、私たちの間にはいくつもの名言が生まれた。
“貧乏暇なし”
“お金と時間はない。でも夢と希望はある”
“洛中洛外を右往左往、東奔西走、七転八倒”

毎日のようにふざけた写真を送り合い、笑っていたけれど、本当はずっと苦しかった。私たちは、「将来」という出口のない問いに向き合っていた。
片岡さんは、VIGOREの継承を。
私は、京都で大好きな文化をビジネスとして成立させることを。
自分で選んだ道ながら、いつも泣きながら宿題を通じて自分たちの未来に向き合っていた。
修士論文のテーマも、そのまま自分たちの人生だった。課題が多すぎてテーマがどうしても決まらず、「桜が咲くまでには決める」と約束したことがある。

でも京都の桜は、3月頭から4月末まで開花時期が幅広い。だから「京都市の標本木である二条城を基準にしよう」という話になった。その年は桜が遅くて、本当に助かった。
苦しさの中でも、そういう笑い方が一緒にできる人だった。
“感謝すべき、優しい”友達
私たちの救いは、ワインだった。
「1時間1本勝負」と称してボトルを空ける夜。気の置けない仲間と、浴びるように飲む夜。

酔っ払って「ホテルに帰りたくない」と駄々をこね、2軒目3軒目へと連れ回したこともある(写真は片岡さんにホテルへ連行される私)。翌朝の日曜日。絶望的な体調で今出川の階段をのぼりながら、「なぜ人の頭はこんなに高い位置にあるのか」と大真面目に議論した。
10年通うワインイタリアン〈バルケッタ〉の店主・小林さんに、「理沙ちゃんと飲んでくれる友達は優しいなあ。感謝しい」と言わしめたのも、この仲間たちだった。その中におおよそいつもいたのが、片岡さんだった。
▶︎私の人生の乱高下を知るワインイタリアン
卒業式(正式には修了式)の日には、片岡さんのお母さん—私たちはオカンと呼ぶ—に叱られた(この日私たちはとびきりのおめかしをした)。
「関根さんと飲んだ時だけ、娘がボロ雑巾みたいになって帰ってくる。あんたらどんな飲み方してんの」

・・・大晦日、図書館で修論を書き続け、そのまま年を越したこともあった。

歯磨きをして、ロング缶を飲みながら八坂神社へ向かったけれど、四条通の尋常じゃない人混みを見て即座に断念し、結局ホテルでコンビニの蕎麦をすすった。そして翌日も、修論を書いた。

あるいは、空庭テラスに泊まり込み、ゼミ前日に徹夜で発表資料を書いたこともあった。
▶︎覇者になれる唯一無二の東山ビュー|【空庭テラス】天空の露天風呂と足湯テラス
あの頃の私たちは、ずっとボロボロだった。
でも、あれほど生きていた時間を、私は他に知らない。

命の恩人、因幡薬師に見守られ
2回生の夏頃だったと思う。あの頃の私は、課題と修士論文に加えて仕事もプライベートも限界で、私は泣きながら彼女に電話をかけた。もう無理だと思った夜だった。
すると彼女は私が泊まるホテルまで飛んできてくれた。
ボロボロになって東京から上洛した私を、可愛い愛車のビートル(仲間から仲間へ2年限定で乗り継がれていた貴重な一台)で迎えにきてくれたこともあった。

「死んじゃダメです。私が悲しいから」
その一言だけで、私はかろうじて現世に繋ぎ止められた。あの日だけは私は京都に生かされたのではない。彼女に、生かされたのだ。
あの日の因幡薬師の光を、私は一生忘れないと思う。

不器用な美意識が守るもの
彼女は、美しいかどうかで物事を判断する人だ。それは見た目の話ではない。
芯があるか。凛としているか。その人や道具が、気高いかどうか。
だからこそ、傷つく。

「なんや、商売っ気を出して」
展示会を開き、必死に活路を見出そうとする彼女に投げかけられる、そんな言葉。彼女は、そのたびに真っ当に傷つく。
でも、それでも、「VIGOREじゃない」と思うことは絶対にやらない。たとえどんなに儲かるとしても。

そういえば私は、彼女が初めて手がけた〈vigore for W〉のモデルも務めている。
けれど彼女は、「女性向け」という言葉に逃げなかった。
軽く、可愛く、消費されやすいものに寄せるのではなく、その人の身体に自然に馴染むこと。長く付き合えること。その人の時間に寄り添うこと。
結局そこでも、彼女は「ビゴーレらしいかどうか」を貫いていた。
もしかしたら経営としては不器用なのかもしれない。でも、その不器用さが、VIGOREという世界を守っている。

細く、しなやかで、美しく、でも驚くほど強い。
彼女はいつも「VIGOREであること」「VIGOREらしいこと」を気にかけているけど。
私から見れば、彼女こそ、VIGOREの自転車そのものだと思う。

心の距離と、敬語の温度
卒業してから会う頻度は減った。
それでも、国際会館方面へ行くたび、私はVIGOREのガラスを覗くのが趣味だ(悪趣味ではある)。
今はなきHOTOKIに行った帰りもそうだったし、お気に入りの宝ヶ池プリンスホテルに泊まる前後もそう。

不思議なことに、私たちは今でも「片岡さん」「関根さん」と呼び合い、敬語で話している。周囲は驚くけれど、これが私たちにとってちょうどいい温度なのだ。呼び名と心の距離は呼応しない。

春には桜の開花に心を躍らせ、夏には岩倉川を眺めながらアイスを食べ、同志社中高に通う豊かな学生について毒づいたりもする。
私たちはLINEを「ここはTwitter」と呼び、深夜に不細工な自撮りを送り合い、時に「死にたい」と弱音を吐き、京都のしょうもないニュースを共有する。相手の返事は期待していない。互いに時間と余裕がある時に返信する。
上京から下京を彷徨う私と、国際会館の工房にいる彼女。
標高差のせいで、こちらは晴れているのに、向こうでは雪が降っていたりする。

「こちらは雪が積もりました」
「こちらはよく晴れていますよ」
そんな何気ないやり取りが、私にとって呼吸そのものだった。

そういえば、このKYOTONOANOのウェブサイトを作ってくれた会社も、片岡さんが繋いでくれたご縁だった。
最初、私は「仕事紹介サイト」のようなものを作ろうとしていた。けれど担当の秋山さんは、「そんなんめっちゃおもんないでしょ」と言った。あの一言がなければ、今のKYOTONOANOは存在していなかったと思う。
▼KYOTONOANOローンチパーティーの写真。詳しくはこちら
鴨川のほとりで“ちょっとしたパーティー”を|【五条】半兵衛麸の生麸バーガーと夜景

私という人間を紹介するのではなく、私の美意識を、思想を、眼差しを、描く。今の形へ舵を切れたのは、片岡さんが繋いでくれた人たちのおかげでもある。
初夏の岩倉、浅葱色の決意
2025年5月。私はVIGOREの工房にいた。
彼女の処女作(とは時代的に言ってはいけないのか。なら初号機?)は絶対に私が買うと決めていた。
初夏の気持ち良い風。瑞々しい若い緑。
2人で『日本の伝統色』の本をめくり、色チップを広げながら、どの色にするか議論していた。
そして辿り着いた結論。
「やっぱり浅葱色じゃない?」
京都へ導いてくれた、新選組の色。私の原点であり、頂点でもある色だ。

「00って入れていい?」
彼女にそう聞かれた瞬間、胸が熱くなった。その数字は、4代目としての彼女の、静かな決意表明だ。
関根号についてはこちら
▶︎生涯の相棒を手に入れた。|【VIGORE】100年続く伝統とクロモリ

増上寺に響く、祈りのような言葉
2025年10月。東京・増上寺。
東京タワーの光と、重厚な慈雲閣。
その荘厳な空間に凛として佇むVIGOREの自転車が、京都で生きる彼女の姿と重なった。

光る東京タワーを背にオトンと並んで笑う彼女を見て、私はまた泣いていた。600年の歴史を持つ寺院の静寂の中で、彼女はこう語った。
「自転車は、ただの道具じゃない。その人の手足のようになって、その人の特別な時間を刻むための、1台でありたいんです。
永く使うこと、愛着を持つこと。
丁寧に扱う時間も含めていい時間となればいいなと。」
京都という街で、伝統を継ぐということ。それは、血を流すような更新の連続なのだと思う。
時代を読み、必要なものを取り入れ、ときに何かを手放しながら、そしてそこには苦しみが伴うこともあり。
それでもなお、壊したくないものを残そうとする。

これはまさに、京都のモノづくりの象徴。時代に即したことを最先端でやって、それを繰り返してきた。だからずっと残ってきた。
彼女の言葉が、祈りのように響いた。

▶︎この舞台にかけた私の思いはこちら
推し寺で、推し自転車を|【増上寺】VIGOREと繋ぐ京都の美、MBAの寺院活用論を実践
「高級インテリア」の愛おしき矛盾
正直に言うと、実はこの「関根号」にほとんど乗っていない。いや、正確に言えば、怖くて外に停められないのだ。
京都市内の駐輪場に不用意に停めれば、盗まれる未来しか見えない(それくらVIOGREの自転車は京都でブランド価値が高い)。自宅の駐輪場も、外から誰でも入れるし、そもそもラックがないので傷だらけになること間違いなし。

結果、この麗しい自転車は今、部屋の中でインテリアのように鎮座している。同居する彼はそんな私を見て笑う。
「高級なインテリアだねえ」
否定はしませんよ。でも私にとって、これはただの置物じゃない。部屋の片隅にその浅葱色があるだけで、私はあの苦しかった2年間を思い出せる。彼女が火花を散らしながら掴み取った技術を思い出せる。

互いのおばあちゃんが見守る空の下で
卒業後、私たちはそれぞれ、大好きなおばあちゃんを立て続けに亡くした。
2人とも、自分のことで精一杯だった。普通の女の子らしく、花嫁姿も、ひ孫の顔も見せられなかった。付き纏う悔しさや申し訳なさを、私たちは何度も共有した。
きっと今頃、極楽浄土で、おばあちゃんたちは七転八倒する私たちをハラハラしながら見守っているに違いない。
「危なっかしい子たちやなあ」
そう笑いながら。

戦友は、いつもここにいる
“有紀”という名前には、1人っ子の彼女が「1人でも勇気を持って歩めるように」というオトンとオカンの願いが込められている。
その願い通り、彼女は本当に強い子になった。
でも、片岡さん。
あなたは1人でも歩いていける強さを持っているけれど、忘れないで。
あなたの隣には、同じように泥を啜り、ワインを浴び、京都という街で生き延びようとしている戦友が、いつもここにいる。

インテリアと化した関根号に対して、最近彼女は「傷とか付いたら直すから、ちゃんと乗ってよ」と言う。
だから私は、近いうちにちゃんと関根号に乗らんとしている。浅葱色のフレームで、風を切って、京都を走る。
そう、傷付いたら直せばいい。それでも前へ進めばいい。


