東福寺の広大な伽藍を抜け、南へ。少し歩みを進めるだけで、空気がふっと、より密度を増した静寂へと変わる場所がある。
「虹の苔寺」の名で愛される、東福寺の塔頭・光明院。昭和の名作庭家・重森三玲が精魂込めた「波心庭」が広がるこの場所でただ一人、この静謐を司っているのが、ご住職・藤田慶水氏だ。

「坐禅なら、間違いなくこの人」
藤田住職との出会いは、ある一言から始まった。
数年前、卒業した同志社ビジネススクールのOB会で、坐禅会を企画した時のこと。せっかくなら、観光的な体験ではない「本物」の坐禅を、そして私が敬愛してやまない仏教の、あの凛とした空気を感じてほしい。そう思い、ハタチからお世話になっている妙心寺の、ある偉い(こう書くと身も蓋もないが、本当に偉い)お坊さんに相談を持ちかけた。
その方もまた、妙心寺の厳しい道場で10年の修行を積んだ、「本物」の禅僧である。その人が、私の問いに対して一瞬の迷いもなく、深い確信を込めて仰った。

「有名な人とかメディアに出ている人じゃなくて、本当に『すごい』人でしょ。それなら、間違いなく東福寺の藤田さんかな。あの人の坐禅は間違いなく本物だと思うなあ」
東福寺の修行は、今も昔も峻烈を極めることで知られている。藤田住職は、その中でも特に修行が厳しかったといわれる時代を、10年にわたって耐え抜いてきた。その歳月が、今の住職の静かな、しかし圧倒的な存在感を放つ佇まいを形作っているのだろう。

実際にお会いした藤田さんは、なるほど確かにガタイがよく、精悍な印象を受ける。でもそれは、単なるスポーツマンのような体格の良さではない。坐禅の最中に警策(けいさくと読みます)で叩かれ続けた証。その肩は、まるでコブのように逞しくこんもりと盛り上がっているのだ。その「がっしり」とした厚みこそが、過酷な修行を全身で受け止めてきた禅僧としての勲章であり、生き様そのものなのだと感じずにはいられない。お坊さんという存在に出会った15年前から私は言っている。
お坊さんとは、生き方であると。

藤田さんは、結婚をせず、ただ独りでこの場所を守り続けている。現代において、家族を持たないという選択は、ある種の凄まじい覚悟を必要とするものだ。
ただこの庭と、この静寂と、そして訪れる人々の一瞬の救いとだけ向き合う。その潔い「独り」という規律こそが、光明院に漂う、あの凛とした気高さの正体なのかもしれない。
藤田さんの佇まいには、淡々とした静けさの中に、どこか凛とした、曲者を受け付けない静かなる強さが同居している。
変わるもの、変わらないもの
藤田さんが守る「波心庭」は、昭和を代表する作庭家・重森三玲が手がけた枯山水の傑作である。

“三玲さんは、百年の先を見越して、変わらないもの―石と、砂と、苔―を主役に据えたのです。”
三玲さんがなぜ庭の真ん中に桜や楓や松を植えなかったのか。藤田さんが教えてくれた。もし中央に華やかな木を植えてしまえば、100年後にはその木が巨大化し、庭全体の均衡を崩してしまうし、庭全体が霞んでしまう。それを避けるため、三玲さんはあえて「変わらないもの」を骨格に据えたんだそう。
“本当はちょっと変わってますよ。苔とか張り替えたりしますからね。”
藤田さんは茶目っ気たっぷりに笑った。

“三玲さんは、変わるものは周りに「環境」として置きました。環境として、春が来ると桜が綺麗に咲いて。
この後、もうちょっと芽生えてきている新緑が黄緑色をさす。
それが終わり新緑が全部出たなと思うと、ツツジ、サツキが赤や白の花を咲かせる。
夏には深い緑になり、秋が近づくと左上に渋柿がオレンジ色を射して、「あ、渋柿がなったな」と思うと、いつの間にかモミジが全部真っ赤に染まる。
と思ったら散っていって、また庭の石に目がいくようになって。たまに雪が降って真っ白になったりします。”


藤田さんの流れるような言葉からこの庭の四季を追うと、美しいカレンダーをめくるように風景がありありと浮かんでくる。
うつろうものと変わらないもの。その時の流れに、なんだか切なくなる。
「池泉式枯山水」の哲学
かつて三玲さんが提唱した「永遠のモダン」。三玲さんらしい天に向かって鋭く突き出す立石の群れは、あたかも宇宙の意志を宿しているかのよう。特に、石が三柱ずつ配された「三尊石」が、釈迦三尊、阿弥陀三尊、薬師三尊として庭の各所に配置されている。真上から図面で見ると、これらの石は「光明院」の名が示す通り、仏様から放たれる後光(それすなわち光明)のように放射状に配置されているという。

右奥に見える(よく見ないと見えない)茶室は、「蘿月庵(らげつあん)」という。「蘿月」とは蔦の隙間から見える月、という意味。ツツジとサツキが「雲」を表し、雲自体は迷いを表す。白砂、下の白砂が「海」を表している。
“『雲、嶺上(りょうじょう)に生ずることなく、月、波心に落つることあり』
雲がぱーっと晴れた時に、月の光が波打つ心――波心に射し込む。そこにあるのは分かるけれど、掴むことも掬うこともできない。それが悟りの世界です。
悟りは難しいですよ、なかなか掴めませんからね。”
藤田さんが笑う。

そして、この庭にはもう一つの「奇跡」が隠されている。枯山水といえば川の流れを砂で表現するものが多いが、この庭は砂自体が「池」の形式をとっている。大雨が降るとそこに水が溜まり、砂の海が本物の池のようになる。これを「池泉式枯山水」と呼ぶ。雨上がりの晴れた日、水面に空の景色が映り込むその瞬間こそ、三玲さんが描き出した「悟りの妙境」が現れる。一日か一日半かけて徐々に水が抜ける仕掛けになっているそう。
ああ、見たい。
信心深い三玲さんは、数々のお寺の庭を無償で作っていたらしい(その分、一般の家の人からはしっかりいただいてたとか)。きっと禅にとても詳しかったんだろうと藤田さんは言う。

ちなみに門を潜ってすぐ、弁天さんの手前にある庭も三玲さんの作。「雲、嶺上に生ずることなく」の「雲」と「嶺」をとって「雲嶺庭(うんりょうてい)」という。
ここには、庭も、書も、三玲さんの仕事で溢れている。贅沢だ。


歴史の断片が繋ぐ、光明院の数奇な運命
光明院の歴史を紐解くと、そこには本山・東福寺との深い縁が見えてくる。実は現在の立派な本堂は、明治期の東福寺火災の際に集まった「余り物」の資材で建てられたものだという。

150年前、東福寺を襲った大火。
法堂や仏殿、そして応仁の乱も乗り越え京都随一の大きさを誇ったという大仏までもが焼失した。
焼け残ったのは、現在国宝となっている三門と、左手だけが残った大仏の断片のみ。手のひらだけで2m以上あったという。玄関の頭上に飾られた巨大な「蓮弁」―仏様が座る蓮の花びら一枚が、往時の壮大さを物語っている。それでもここにあるのは小さい方で、4倍くらいのものもあるというから、かつての大仏がいかに大きかったのか。
その大火をモチーフに描いた襖絵が、玄関で私たちを迎えてくれることがある。展示やイベントによって置かれていないこともあるので、あくまでタイミング次第。

東福寺の再建時、全国の360の末寺から集まった膨大な資金と資材。
本堂や法堂は立て直したが、巨大な仏堂を再建するには足らず、再建を諦めた。
とはいえ集まった資材や資金を余らせるわけにもいかない。その「余り物」に白羽の矢が立ったのが、この光明院だった。庭を目の前にした今の本堂はこの時できたもの。塔頭は書院造りを基本とするので、元々は左手側の建物が本堂だったそう。
▼元の本堂から現本堂を覗く

“そうして余り物とは思えないくらい、こんな立派な本堂が出来ました。”
そう笑う住職の背後にある本尊・金剛仏のお釈迦様は、650年前の渡来仏。降魔印のように大地に触れる珍しい印相を結んだその姿は、この場所が「余り物」などではなく、選ばれし聖域であることを静かに証明している。六人がかりでようやく持てるほどの重たい金剛仏は、悠久の時を超えて今もこの地を静かに見守っている。
お寺の「本来の姿」に戻す
光明院では、毎月のように現代アーティストの作品や世界観を、まるでギャラリーのごとく展示している。
藤田さんのお話を聞くたびに、私は強く思う。
お寺とは本来、最新の文化が生まれる場所だったのではないか、と。

江戸時代の寺子屋がそうであったように、かつてのお寺は地域のハブであり、教育、福祉、救済の現場であり、そして芸術が交差する「文化の最前線」だった。
近世の京都では、長谷川等伯や狩野山楽・山雪のような絵師たちが寺院の障壁画を手がけ、空間と一体になった作品で名を残した。のちの時代には伊藤若冲のように、寺院や公的空間と深く結びつきながら独自の美を築いた絵師も現れた。
その時代をときめく絵師たちがお寺に住み込みで襖を描き、その仕事によって世に羽ばたいて出世していったことも多かった。彼らが残した名品が今、私たちの前に文化財となっているのだ。
現代、寺院の機能の多くは檀家制度の中に埋没してしまったかもしれない。けれど、藤田住職はこの光明院で、その本来の姿を現代的な形で取り戻そうとしている。近年、国内外で活躍するアーティストを住まわせ、制作を支援する試みは、まさにその体現だ。

現在は、普段の本堂に並ぶ襖絵は、現代作家・丹羽優太氏の手によるもの。齢32にして、「くるり」のCDジャケットなども手がけ、「日本の現代アート界を担う若手アーティスト30人」に選ばれる気鋭のアーティストだ。藤田さんは、単に有名な作家に依頼するのではない。このお寺に住み込み、住職の感覚やこの場所の空気を肌で感じた人間にのみ、筆を委ねる。

何百年と持つ素材を使い、何百年ともつ場所に収める。それが未来の文化財になる。
ここで描かれるものは、住職が司るこの静謐な空気の中で、同じ釜の飯を食い、禅の心に触れた時間から生まれた「対話の結晶」だ。住職と職人(アーティストと言った方がいいか)の信頼関係と価値共有によって作品たち。
だからこそ、歴史が積み重なったこの空間に驚くほど馴染んでいる。過去にはこうやって、お寺の文化は華やいでいったのだなと想像ができる。

それは、近年京都で蔓延っている、東京からやってきて京都文化の表層だけを撫でて去っていくような「アートプロジェクト」とは一線を画す。どことは言わないけれど、名所の梅に余計なキラキラをつけたり、文化的建造物をピカピカと照らすのは、好きじゃない。
“皆さんは今、国宝のスタートアップに立ち会っているんです。”
そういたずらっぽく笑う住職。
一人が巣立てば、また次の一人を受け入れる。そうして未来の文化を紡いでいく光明院は、まさに寺院本来の姿そのものである。

自坊への、京都への深い愛
私は光明院で、お寺本来の機能と価値を目の当たりにしている。ここには機能美も様式美もある。すごいことですよこれは。経営学で言えば、機能的価値も意味的価値もある。
寺院空間は本来、住職が作るものだと思っている。
一方でその静寂や聖なる空気は、拝観者によって住職と共に作られるものでもある。マーケティングで言うところのいわゆる”価値共創”が、静謐な寺院空間では鍵となる。

満開の桜の日も真紅の紅葉の折も、ここはいつも、ちゃんと静かだ。
この光明院という空間を形作っているのは、藤田さんの厳かさ、アートへの深い造形と崇拝、幅広い層を受け入れる懐の深さ。そういう色んなものが絶妙な均衡を保ちながら存在している。
そしてそれら全てを包み込む、この場所への深い愛情である。藤田さんの言葉の端々には、庭に対する慈しみ、京都に対する穏やかな愛が滲んでいる。
聞けば、藤田さんは三重・鈴鹿の一般の家に生まれた。庭について教えてくれる中で、藤田さんは時々ふっと表情を和らげて笑う。
“にしてもいい庭ですね。”
“京都は、いいところですよ。”

藤田さんは私と同じく、京都の外からやってきた人だ。お寺の生まれでもない。
でも、だからこそ、藤田さんの「ここはいい場所」という言葉が私はどうしようもなく嬉しいし、どうしようもなく切なくなる。
藤田さんは、この地を、この場所を当たり前と思わず、「ありがたい」と受け止め、心から慈しんでいる人だと思う。だからこの場所はこれほどまでに美しくあり続けられる。
この空間は藤田さんによって守られている。これこそが、住職の役割だと私は気づいた。

雑音さえも「景色」に変える
桜が満開を迎えた春の日、私は藤田さんの指導のもと、坐禅の時間を共にした。
折しも、お寺のすぐ隣では、工事の音が響き始めた。いつもの私なら、せっかくの静寂が邪魔されたと眉をひそめていたかもしれない。
でも藤田さんはこう仰る。

“鳥の声が聞こえます。耳を澄ませば水の音も聞こえます。
後ろの工事の音もおそらく聞こえてきて、気になるでしょう。
しかし自分自身の都合で「これはいい、これは悪い、これは邪魔、これは邪魔じゃない」と思っているということに気づくと、全ての音が同じように聞こえてきます。”
ただ聞こえるだけ。その聞こえた物に対して、二次的に自分の心がジャッジを下している。それが「邪魔」という感情を生む。
その二次的なジャッジを全部解消し、ただ感じたものをそのまま自然と受け入れる。それが無心の状態です。

無心というのは心の中を無くすという意味ではなく、心という容器を空っぽにして、何が入っても溢れ出ないようにするイメージだという。
「般若心経」で言う「眼耳鼻舌身意(げんにびぜっしんい)」。思い浮かぶ雑念さえも否定せず、ただ受け入れる。
半眼で畳を見つめているうちに、あの耳障りだった工事の音が、風に揺れる桜の音や鳥の声と同じように、一つの「自然な音」として溶け込んでいった。
8分間の坐禅。たったそれだけの時間。
それでも立ち上がったとき、視界に入った庭の色は、座る前よりもずっと鮮やかで、優しさに満ちていた。

本当の「知る」ということ
「座禅は自分自身を見つめることが目的」と藤田さんはいう。携帯電話を例にする。
“携帯電話を、ただの『電話』だと思って使うのと、写真も撮れればメールもでき、自分の秘書にもなると知って使うのとでは、その用途の豊かさが違います。
自分自身も同じ。「自分はこうじゃないといけない」「自分はこういう生き方しかダメだ」という思い込みを捨てて、自分の本来の可能性をもう一度見直してみる。
新しい自分を見る。
それを教えるのは他人ではなく、自分自身なのです。そうすることで、自分の人生が豊かになると禅宗では考えます。”
「雑音だ」「騒音だ」「邪魔だ」と思っているのは、私のちっぽけな主観だった。自分の都合で世界をジャッジし、自分勝手な「正解」を求めているからこそ、人は苦しむのだ。

知るということについて藤田さんの言葉が深く胸に残っている。
“禅において「知っている」というのは、知識があることではありません。体験したことがある、その感覚を知っているということ。
ただ知識として知っているだけでは、私たちは知っているとは言いません。体験して初めて、知ったことになる。
情報もAIも溢れるこの時代、自分で体験したことしか、本当に知っているとはいえないのです。”

知っていれば、変なことは言わない。知っていれば、何を言われて揺るがない。
静かに、でも力強く語る藤田さんの根底には、決して揺らぐことのない体験という名の真理がある。それはもしかしたら10年の修行の中で見出されたものかもしれないし、私にはわからない。
でも、この方の「本物」としての強さは、ここにある。
「蘿月庵」に見る、経年変化の美学
藤田さんに連れ立って向かった茶室「蘿月庵」には、深い知恵が隠されていた。


壁一面に描かれた細い白い線の「円相(えんそう)」は満月を表し、庭に対して月を表現している。藤田さんは、本来の形に戻そうと、障子に白線を延長して描き入れたという。失われた「本来の姿」を現代に繋ぎ止めることを、藤田さんは何より大切にしている。
壁には、不思議な跡が描かれている。これは、土壁に鉄分を混ぜ、経年劣化によって花が開いたようなサビが浮き出るように施す。あるいは、お酢に浸した藁を土に埋め込み、酸化によって模様が浮かび上がるようになっているという。

“初めは分からないんです。時間が経って、
乾燥して、変化していく。その変化、経年劣化を楽しむのが、日本の美、お茶の美、美徳の一つです。”
話を聞きながら、南禅寺参道菊水の庭師・平林さんを思い出した。これが「侘び寂び」の本質なのだと、かつて教えてもらったことがある。
平林さんについては▶︎私の迎賓館の庭の守り人にて。
大工の血を引く
網代天井や船底天井の話を続ける藤田さんは、建築に対しても異様なほど造詣が深い。何を隠そう、三重の大工の家に生まれ、職人の血を強く引いている。多い時は20人もの職人さんを抱える大工集団の家系だったという。
そんな家に生まれながら、なぜ仏門に入ったかの。

“小さい頃にいろんな大人たちに出会って、お坊さんが一番「すごかった」んですよね。”
18歳で出家を決意するまでに、尊敬に値する素晴らしいお坊さんたちに出会ってきた。その憧憬を抱いた少年の瞳のまま、藤田さんは今、この場所を守っている。かつて憧れた「すごかったお坊さん」の背中を、今は彼自身が体現している。


実は境内には他にも藤田さんが三玲さんの手法を真似て仕掛けた「光明」の文字など、興味深い意匠が点在している。そこかしこがおしゃれだし、普段はなかなか見ることができないけれど、裏のお部屋も木や竹を効果的に使ったモダンで洗練された設えで、粋だ。ここでいただくお抹茶とお煎茶が、どうしようもなく好きだ。とても緊張はするのだけど。

藤田さんの語る建築の話、そして随所に施された様々な仕掛けには、僧侶としての深みと、職人としての実直な熱量が同居している気がする。幼い頃、家を訪れる職人さんたちや、高徳なお坊さんたちに囲まれて育った経験が、この「素材と対話する」姿勢を形作ったのかもしれない。
静寂を司る誇り
光明院は、桜や紅葉が主役のお寺ではない。裸木となった冬の寂寥、雨に打たれる夏の深緑。
そして何より、そこにある静寂そのものを守る住職の意志。

広く門戸を開きながらも、決して安売りはしない。革新的な試みを続けながら、坐禅という「禅の中枢」を極め、同業者からも一目置かれる実力者であり続ける。
藤田慶水という人は、京都という街が持つ「伝統と革新」をそのまま体現したような、清々しい「本物」だ。
日常に疲れ、呼吸が浅くなったとき、私はまたこの門をくぐるのだろう。
そこには、変わりゆく季節と、変わらぬ石の力強さ。あるがままを受け入れて、ただ、じっと座っていたいと思う。
春の陽光が、三玲さんの石に淡い影を落とす。その影さえも、住職が司る美しい静寂の一部だ。

