ひとりきりの夏の宵の記憶
まだ20歳くらいの7月。
夜、私は1人で下鴨神社のみたらし祭りに行った。


足つけ神事(あしつけしんじ)とも呼ばれるこのお祭り。
夏の土用の丑の日に、本殿の東を流れる御手洗川の水に足を浸す神事だ。私たちが生きている中で知らぬうちにまとってしまった罪や穢れを洗い流し、無病息災を祈願する。

祇園祭の箸休めに
みたらし祭と言えば下鴨神社。
7月の末、祇園祭の後祭と重なるような形で始まり、月末くらいまで10日ほどやっている。昔に比べて長くなったような気がする。気のせいか。

連日の祇園祭まつり(誤字ではない。朝昼夜と1ヶ月続く祇園祭フェスティバルを指す。私と同僚数人しか使わない)の箸休めに行くくらいが、ちょうどいい。
近年は北野天満宮でも8月10日前後、七夕の頃に行われるようになった。8月に行きたいならこちらへぜひ。
泡の伝説と、みたらし団子
下鴨神社の御手洗池には、鴨の七不思議のひとつがある。
夏の土用になると、池周辺や川底から湧水が出るのだ。
そしてその泡を模したのが、すぐ西側にある「加茂みたらし茶屋」のみたらし団子。


後醍醐天皇が御手洗池で水をすくったとき、まず一つ泡が浮かび、続いて間を開けて四つの泡が浮かんだという逸話もある。
そのため、ここの団子は上の1玉が少し離れて、下の4玉と串に刺さっている。

タレは醤油と黒砂糖、葛でとろみがプラスされている。炭火であぶった香ばしい焼き目にタレがかかって、3本でもぺろっと食べられる。ちなみにこの写真を撮っていたら、推定50代の男性にナンパされてすごく複雑な気持ちになって足早にその場を去った。ちょっと苦い思い出。
人に言えない淡い気持ち
足つけ神事自体は朝からやっているけど、あれは夜に行くものだと決めている。そもそも昼間なんてこの時期出掛けたら焦げるか茹で上がるかしてしまう。
薄暗くなって提灯がともる、夕暮れ直後くらいがいい。真っ暗じゃ風情がない。

友人を誘おうとも思ったけれど、その日はなんとなく1人で行きたい気持ちになり。
というのも、その時の私にはお付き合いしている人がいたのだけれど、なんとなく気に掛かる人がいた。
だからといって、若かりし私は恋に対する度胸も免疫もない。繰り返すが、なんてったってお付き合いしている人がいるのだ。
気に掛かる人からの好意も感じていて、もちろんその気持ちを互いに確認することなんてなく。何をどうするわけでもなく。近しい暮らしをしているから偶然会ってしまうこともあり、その淡い気持ちを抱いたまま、ただ静かにその時間を過ごしていた。

体温が下がる、清らかな水
そんな鬱蒼とした心持ちだから、みたらし祭りも誰かと行くより、ひとりでぼんやり行きたかった。

提灯がともった社を、月がてらす。
浴衣をまとった恋人たち、小さな子供と夫婦、楽しそうな観光客に混じって、受付に並ぶ。
初穂料として300円を納め、ろうそくを受け取ると、靴を脱いで御手洗川にじゃぶじゃぶと入っていく。
20度を下回るという冷たい水の中は、体感10度くらいに感じる。膝まで足を浸していくと、体の温度が3°くらい下がる感じ。
体の芯からひんやりとしていく感覚。
清くて正しい冷たいものが私の中にすうっと入ってくるような、そんな感覚。

恋をしないための禊
進んでいって、奥にある燭台からろうそくに火を灯す水面に映るゆらゆらと揺れる炎を見つめながら、ふとこの歌が頭に浮かんだ。

恋せじと 御手洗川に せし禊 神は受けずも なりにけるかな
これは、『伊勢物語』に登場する在原業平の歌。
業平が恋をしたのは、藤原高子。政敵でもある藤原氏の帝に愛された人だ。
道ならぬ恋、許されぬ恋。ライバルは天皇だ、下手すれば命が危ない。
それでも落ちてしまった恋。業平は、周りに呆れ笑われても、自分の身を危険に晒しても、気持ちが止められない。神仏に祈っても、お祓いをしても、恋心は増すばかり。業平は、どうにもならない自分の思いを歌に詠んだ。

恋の熱さと虚しさと
恋せじ、と始まる力強さ。
気持ちがそのまま口から漏れ出たような、独白、心情の吐露。
でも最後の「受けずもなりにけるかな」には、もがいてもがいて苦しい気持ちの一方で、諦めに近いような、次第に受け入れていくような虚しさも感じる。
冒頭の燃え上がる炎のような赤さ、熱さから、後半にいくにつれての青い炎のような、冷えゆく感じ。たった三十一文字に、盲目になる恋の熱と危うさを感じる。

業平という、稀代の色男と言われた人。
恋の沼への沈み方というか、その切実な歌の詠みぶりに、和泉式部に通ずるものを感じる。
その人のことを考えながら静かに歌を呟いたら、どうしようもなく胸が苦しくなった。
ああ、もしかしたら私はやっぱりあの人を恋しいと思っているのかもしれない。どうしよう。でも、恋人を裏切ることはできない、離れることもしたくない。どうしよう。
御手洗社への祈り、どうか受け止めて
思わず遠くに住む友人に電話をかけた。業平が祈ったり禊をしてもがいたように、誰かに何かの助けを求めた。
それでも電話で吐き出したところで、やっぱり業平と同じでどうしようもなくて。
虚しく御手洗川から上がると、ご神水をいただく。口の中に含み、今度は体の外ではなく体の中からも清めていく。

そして最後に、御手洗社に参拝する。業平のように祈った。どうかどうかこの気持ちが静かに消えてなくなりますように、と。
恋と云はじ甘き夢
神様は、私の願いは受け入れてくれた。
月日を経るうちに、その人への想いは泡のように消えていってくれた。恋と呼ぶにはあまりに儚くて、けれどたしかにそこにあった、幻のような感情。

与謝野晶子の歌をひこう。
恋と云はじ そのまぼろしの あまき夢 詩人もありき 画だくみもありき
意味は、こんな感じ。“恋とまでは云わない、でもそんな夢を見た。思い出せば、、詩人もいたし、絵描きもいた…。”
恋にまで行かないような、甘い夢。そんな幻も人生にいくつかあった。
人はきっと皆、そんな幻を見ながら、そして気付かぬうちに失いながら、大人になっていくのかもしれない。





