庭師 平林敬祐さん

南禅寺参道 菊水
私の迎賓館の庭の守り人

平林さんの背中を探せ

南禅寺参道 菊水の庭は、美しい。
でも私は、あの庭を単なる“風景”として見たことは一度もない。

なぜなら、そこにはいつも平林さんのまなざしがあるからだ。

南禅寺界隈別邸群に位置する〈南禅寺参道 菊水〉についてはこちらで綴っている。
▶︎私の迎賓館【南禅寺参道 菊水】庭を守るという経営

ピカピカに磨き上げられたガラス越しに庭を眺めながら食事をしていると、よく平林さんの背中がみえる。
苔を整える丸まった背中を眺めながら、ここは優しい世界だなと思ったりする。

平林さんの姿をウォーリーのように探しながら飲むワインは、格別に美味しい。

循環する「目に見えない土壌」を耕す

平林さんの庭のお手入れは、驚くほど「循環型」で科学的だ。農薬を一切使わず、自ら培養したバクテリアを土に還すことで、根源から樹木の免疫力を高めていく。この「オーガニックな管理」は、100年後も庭が健康に呼吸していくするための、壮大な土壌改善プロジェクトでもある。
その先進的な取り組みは、京都大学や園芸高校などの学術機関からも注目され、次世代の庭園文化を担う場としても機能している。

この壮大な「土壌の再生」は、私たちを迎える門の錆壁にも現れている。菊水の池の底の土を使用して修復した壁は、藁の代わりに松葉を混ざり、松の灰のアクによる独特の錆色を演出している。

「庭師の技術を誇るためではなく、この場所が持つ物語を繋ぎたい」と語る平林さん。
伝統的な庭師の技術をバックボーンに持ちながらも、東山の麓と同じ植生を庭の苔一つにまで再現しようとする、徹底したこだわり。それが借景である山と、手元の庭を一つの生態系として繋ぎ合わせることで、菊水の庭には、単なる造園を超えた圧倒的な奥行きが宿る。

こうして、菊水は本来の形を守ることができている。

茶室で100年先を見つめる人

庭の一番奥にある茶室。
そこまで進んでいいのかちょっと悩む、静かなる空間。

平林さんは言った。

「この景色が好きで。ここで、ぼーっとするのがいいんです。」

手入れをする人でありながら、まず風景の中に身を置く人。
管理するのではなく、時間を味わう人。はるか彼方の時間を見つめる人。平林さんがみている時間は、私たちよりずっと遥か彼方だ。
平林さんのお仕事は、今を生きる私たちのためでもあり、100年後の子孫たちのためでもある。

その一言で、この庭の美しさの理由がわかった気がした。

私の迎賓館を彩る設え

館内にさりげなく置かれている植物や季節のあしらいは、平林さんが庭の植物で作ったもの。
庭に咲く小さな花や草木を摘んでいる姿を想像するだけで、ニンマリしてしまう。

竹細工やちょっとした器なんかも作っちゃう。
「これ、僕が作ったんです…色々余り物も使って…」とちょっと照れながら節目がちに呟く平林さんに、キュンとする。

一つ一つが丁寧で、手の温もりを感じて、季節を切り取っていて、美しい。
あの、よかったら、大変図々しいのですが、私にも作ってくれませんか?

そういえば、お正月の門前の飾り付けもえらく可愛かった。

もう庭師という枠を超えてデザイナーというかアーティストみたいと思うけど、そんな横文字の言葉を平林さんは必ずしも喜ばないとも思う。平林さんは竹垣作りや杉玉作りなど、庭師の技術を体験できるワークショップを通じて、庭師の精神を私たちにわかりやすく伝えてくれている、伝道師だ。

木々を見つめる目

庭の植物の話になると、平林さんの目はやわらかくなる。苔の状態。松の枝ぶり。葉の色の変化。

愛おしそうに木々を見つめる目を見ていると、本当に本当に優しい。
そしてここに植えられた植物のことを語るとき、愛おしそうにしている。

「桜の元気がなくて…」子供を心配する親のようにいう。

この庭は管理されているのではなく、大切にされているのだとわかる。
そんな平林さんのファンは多い。私もその一人だ。

専属庭師という覚悟

平林さんは、中根金作庭園研究所で研鑽を積み、宮内庁でも経験を重ねてきた方だ。クラシカルな庭の修繕も、新しい庭づくりも手がける。京都ならそれこそ、修学院離宮、仙洞御所、京都御苑を筆頭に、名刹なら三千院、宝泉院、平等院なども。
その経歴の庭師が、菊水の社員として常駐している。これは簡単なことではない。

専属庭師を置くということは、固定費を抱えるということ。
効率や利益だけを考えれば、出入りの庭師さんを雇ったり、外注した方がいい。

でも菊水はそうはしない。なぜなら、この庭が菊水の心臓であり、宝だから。
その庭こそが、この菊水をただの「素敵なお店」ではなく、喧騒から抜け出し心を清める空間に仕立てているから。

「水の流れが悪かったので、ここを掘って片付けたんです」
平林さんが何気なくいう言葉を冷静に想像し、「え、それすごく大変ですよね?」と但し返すと、
「まあ…」とさらりと流された。

繊細な仕事だけじゃなく、重労働で過酷な仕事もたくさんあるのが庭師だと思う。
そんな当たり前のことを気付かされた。

文化は人件費の塊

私は思う。

文化とは、形ではなく、人の中に宿るもの
文化の芯を守るということは、人の中に流れ続ける美意識を受け継いでいくということ。

庭という文化資本も、最終的には“人件費”の塊だ。

剪定する手、掃く手、水の流れを読む目。
それらがあってはじめて、疏水の水は“美しい庭”になる。

守るということは、費用がかかることを、かかり続けることを引き受けることだ。
菊水は、それを引き受けている。

水の続きにいる人の新たな挑戦

南禅寺界隈の庭は、疏水の水によって生まれた。

でも、水が流れているだけでは庭にはならない。
そこに立つ人がいるから、景色は景色であり続ける。
平林さんは、この庭の物語の続きにいる人だ。

伝道師としての新たな挑戦

庭を単なる過去の遺産としてではなく、常に新しい体験を生み出す「表現の場」として捉えている。その象徴が、自ら企画し、茶室そのものを巨大なカメラに変えてしまう「カメラ・オブスキュラ」の試み。

「庭をただ歩くのではなく、もっと深く没入してほしい」という想いから生まれたこの装置。
暗闇の中で景色が浮かび上がるのを待つ時間は、現代人が忘れかけている「静寂」への感度を呼び覚ます。

風に揺れる葉。鳥の羽ばたき。そこで感じてほしいのは、「茶禅一味(ちゃぜんいちみ)」の精神。茶の湯と禅の精神は本質的に同一であるという、室町時代から伝わる茶道の根本的な教えだ。村田珠光が一休宗純から受け継ぎ、千利休によって大成された侘び茶(わびちゃ)の精神的支柱であり、お茶を点てる所作や心構えが、禅の修行と変わらないことを示している。

少人数限定で募集されるこの実験的な取り組みは、伝統を尊重しながらも、鑑賞者との新しい関係性を模索する彼なりの答えだと思う。

私はこれからも、あの庭を見るたびに思い出すだろう。
この景色は、誰かの手の中にある。

この庭を見ながらいただくワインの美味しさ。ソムリエの樋口さんという人については、
▶︎私の迎賓館でワインを注ぐエンターテイナーで書いている。

南禅寺参道 菊水
〒606-8435
京都市左京区南禅寺福地町31番地